2016年5月29日日曜日

妻沼聖天山歓喜院(5-012、埼玉県熊谷市妻沼)

治承3年(1179)に、斎藤別当実盛が武蔵国長井庄に大聖歓喜天を奉り、聖天宮を開きました。これが、妻沼聖天山の始まりといわれています。

実盛の没後しばらくして、建久3年(1192)に源頼朝が下野国に向かう途中、聖天宮に参詣した折、良応僧都(実盛の次男実長が出家)は、頼朝に聖天宮の修復と別当坊寺院建立のため、関東八カ国の勧進を願い出て許され、その後四年間諸国で喜捨を募りました。

建久8年(1197)には、聖天宮の改修と別当坊歓喜院長楽寺の建立がされました。この際、国平(実盛の外甥)は、良応の兄の二人の子とともに、歓喜院に十一面観音、聖天宮に御正躰錫杖頭を寄進して御本尊としました。

その後、戦乱や火災などでたびたび灰塵に帰しましたが、享保19年(1734)に歓喜院の海算院主は、聖天山信徒の総意のもと、聖天堂の再建を決意し、工匠林正清に設計を依頼し、延享元年(1744)に完成しました。

貴惣門は国指定重要文化財で、3つの屋根の破風よりなっているのが特色です。右側に毘沙門天、左側に持国天の像があります。仁王(金剛力士)像とは違い、邪鬼を踏んだ像となっています。

本殿は平成24年に国宝に指定されました。奥殿・中殿・拝殿よりなる権現造で、本殿側面には、左甚五郎作の「猿を救う鷲」をはじめ多数の美しい彫刻が施されています。

埼玉日光という別名もあり、本殿外壁の彫刻は平成15年から平成23年にかけての保存修理工事で彩色が鮮やかに甦り、豪壮華麗です。スケール的には日光東照宮に比べるとミニ版といったところですが、彫刻を近い距離からじっくりと見られrます。それぞれの作品に物語性があって大変興味深いものです。拝観は有料ですが、ガイドの説明もついていてお勧めです。

貴惣門


貴惣門の扁額 「皆興願満足」

横から見た貴惣門
境内内側から見た貴惣門
本殿全景
本殿の彫刻、右側は「猿を救う鷲」

本殿の彫刻

本殿の彫刻

聖天山の鳥瞰図



2016年5月28日土曜日

実盛公銅像(5-000、埼玉県熊谷市妻沼、聖天山歓喜院)

平成8年、妻沼聖天山の開創818年御開扉の記念事業として建立された実盛公銅像で、 手鏡を見ながら髪を染めている姿です。

以下は、斎藤別当実盛の略伝を「聖天山歓喜院HP」から引用したものです。
越前国、南井郷(なおいごう)の河合則盛の子(幼名:助房)として、生まれる。
13歳の時、長井庄庄司 斉藤実直の養子として、長井庄に居住、名を実盛とする。
祖父の実遠以来、源氏との主従関係を結ぶ。武蔵武士として、数々の戦いで功を挙げた。
●久寿2年(1155)大蔵館の変・・・鎌倉に住む源氏の棟領義朝と、大蔵館に居住する義賢(義朝の弟)は、武蔵国をめぐって対立。義賢は義朝の息子義平に討ち取られるが、遺児駒王丸を実盛公がかくまい、後に信州の豪族に養育を依頼する。
●保元元年(1156)保元の乱・・・天皇と上皇の対立に、源氏・平氏・藤原氏等の同族が入りみだれての戦。実盛公は熊谷直実、畠山重能(しげよし)ら坂東武士とともに、源義朝に従い出陣。悪七別当を討ち、ずば抜けた手柄をたてる。
●平治元年(1159)平治の乱・・・実盛公はじめ、坂東武士17騎でめざましい手柄をたてたが、平清盛の策略に破れ、長井庄に帰る。これらの戦いによって長井庄は平清盛の二男、宗盛の領地となる。長井庄における、これまでの功績を認められた実盛公は、平宗盛の家人となり、別当として長井庄の管理を引き続き任じられる。その後の実盛公は、農民の住み良い土地を作る為、庄内の開拓、治水、土地改良に努め、農作物の出来具合の面倒を見る事などから、農民から大きな信頼を得るようになる。厚い信仰心を持つ実盛公は、庄内の平和と戦死した武士の供養、領内の繁栄を願って1179年、長井庄の総鎮守として聖天宮を建立。 
●治承3(1179)冨士川の戦い・・・1180年、源頼朝が挙兵し、再び源平による戦乱の時代となる。実盛公は平宗盛の恩に報いるため、平氏方として戦うことを決意。敵となった源氏方の、かつて命を助けた木曽義仲(駒王丸)と戦うことになる。平家軍は、義仲追討のため実盛公の生まれ故郷の北陸に向かう。篠原(石川県加賀市)は実盛公の一族同門の地である。故郷に錦を飾るという言葉に従い、宗盛からいただいた大将用の赤地錦の直垂を着て、年老いた武士とあなどられないよう白髪を墨で黒く染め、篠原へ出陣した。 
●寿永2年(1183)5月21日篠原の戦い・・・木曽義仲の軍の勢いに押され、敗走していく平氏の兵の中、実盛公は最後尾でただ一騎ふみとどまり防戦するが、義仲軍の手塚太郎と戦いとなり壮烈な討死をする。享年73歳。実盛公は最後まで名を名乗らなかった。大将らしき姿で名を名乗らない武者が、白髪を染めた実盛公であったことに気が付いた義仲は、命の恩人の無惨な最後に泣き崩れたという。
 この壮烈な戦の悲劇性は、後に「平家物語」、「源平盛衰記」、謡曲「実盛」、歌舞伎「実盛物語」など、数多く語り継がれています。

斎藤別当実盛は、板東武士のなかでも清々しさを感じさせる秀逸な人物の一人ではないでしょうか。

実盛公銅像



2016年5月27日金曜日

樫の木(5-000、埼玉県熊谷市八ツ口、長昌寺)

斎藤別当実盛が長井庄西野に館を構えた時に、八ツ口長昌寺境内の薬師堂を鬼門除けの祈祷所としました。

実盛は、薬師堂前に3本の樫の木を三角形に配置しました。

長昌寺の山門をくぐって本堂の左手前に大きな樫の木があります。

この現存している樫の木は、植えた3本のうちの1本と言われています。

樹齢は800年余りという古木で、熊谷市の指定文化財(天然記念物)になっています。

樹高9.1mで、堂々とした風格のある木です。

長昌寺門前


山門
本堂と樫の木(左手)


樫の木
樫の木の説明板
記念碑



2016年5月26日木曜日

斎藤塚(5-000、埼玉県熊谷市弥藤吾)

実盛の息子などが父の遺物を埋めたとか、孫の弥藤吾実幹あるいは外甥国平住居の跡と言い伝えられている塚で、塚の上に板碑があります。

長井齋藤氏の後裔の墳墓とも伝えられています。

⇒ 所在地のMap

斎藤塚

板碑

南から見た斎藤塚の遠景

2016年5月25日水曜日

斎藤氏館跡実盛塚(5-011、埼玉県熊谷市西野)

旧妻沼町(現在は熊谷市)西野地区、福川に沿って開かれた場所にあります。

妻沼町はかつて長井庄と呼ばれ、実盛が本拠を置いていたところです。

館跡の石碑は高さ約2mで、福川の堤沿いの道に上ると、川向うに広々とした田畑が眺められ、当時の面影を偲ぶことができます。

所在地のMap

実盛館跡碑

説明板

福川沿いに東方を望む









2016年5月20日金曜日

池月の銅像(いけづきのどうぞう、2-000、東京都大田区南千束、千束八幡神社)

「池月」は、「磨墨(するすみ)」と並ぶ名馬として平家物語にも登場します。

池月は頼朝から佐々木高綱に与えられて、同じく磨墨を与えられた梶原景季と宇治川の合戦(寿永3年(1184))で先陣争いをしました。

高綱・池月はこの争いに勝って一番乗りの栄誉を得ました。
治承4年(1180)、源頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中、この千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。
ある月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現れ、そのいななく声は天地を震わせるほどであった。家来たちがこれを捕らえて頼朝に献上した。馬体はたくましく、青毛に白い斑点を浮かべ、さながら池に映る月光のように美しかったので、池月と命名し頼朝の乗馬とした。~池月の銅像の解説板より
頼朝は先に磨墨を得て、さらにこの地で池月を得たのは平家討伐の吉兆と考えられました。将兵共々、旗を高く掲げて歓声が止まなかったとのことです。

千束八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と称するのはこの故事によるものです。

池月の銅像は千束八幡神社の裏手の洗足池を望むところに、また大きな池月の絵馬は境内に立っています。

「磨墨」について

池月の像

池月の解説板

池月の絵馬

絵馬の解説札

2016年5月19日木曜日

千束八幡神社(2-000、東京都大田区

洗足池の西側の小高い丘の上に千束八幡神社があります。
貞観2年(860)に千束郷の総鎮守として創建された。
承平5年(935)、平将門の乱が起り、朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣された。
この乱の後に忠方は池畔に館を構え、八幡宮を氏神として祀り、館が池の上手に当たることから池上氏を呼称した。なお、この九代目の子孫が日蓮を身延から招請した池上康光(宗仲の父)である。
八幡太郎義家が奥羽征討(後三年の役)の際、この池でみそぎして、社前に額いて戦勝祈願をしたと伝えられている。
源頼朝も安房国から鎌倉に上る途中、この地が源氏の氏神である八幡宮であることを知って大いに喜び、此処に征平の旗幟(のぼり)を建てると、近郷から将兵が集まり鎌倉に入ることができたことから、「旗挙げ八幡」の別名がある。~御由緒書より
こじんまりとした神社で、訪れたのが平日であったためか参拝者もまばらでした。

石の鳥居

御由緒の石板

本殿

2016年5月18日水曜日

日蓮聖人袈裟懸松(2-114、東京都大田区南千束)

日蓮聖人袈裟懸松は、洗足池の東側にある星頂山妙福寺にあります。
日蓮聖人が見延山から常陸の温泉に向かわれる途中、公安5年(1282)9月18日千束池を御通りがかりになりました。兼ねて聖人に信伏しておられた池上右衛門大夫宗仲の館も近づき、そのうえ、丘と水のおりなす池の絶景に思わず馬を止められ、旅装束をといて、池畔の老松に法衣をかけ、澄みきった池水で手足をお洗いになりました。これが洗足池の名のおこりです。
その瞬間不思議なことに波一つたっていない水面が俄に渦を巻きはじめ、蛇形をなして水柱となるや、中から眉間白毫相(みけんびゃくごうそう)の光を放つ天女がご出現、聖人合掌して御題目をおとなえあそばせば「九年間聖人を守護して参りました見延七面山頂の湖水に住む水神七面天女遥遥道中のため御守護してお供して参りました」とお明かしになりました。聖人これに応えて法華経提婆達多品を読誦されるや、法華経を信ずる者を末法末永く加護することを御宣言になり水中に消え失せられました。時の舎人このことを後世に伝えようと聖人御入滅後にこの地に来たって小堂を営み七面天女を安置しました。これが当山のはじまりであります。~日蓮宗東京都南部宗務所「管内寺院紹介」HPより
現在の松は3代目だそうです。

洗足池と袈裟懸松は江戸時代の浮世絵『江戸百景』(冬景)でも「千束の池袈裟懸松」として歌川広重が描いています。右手に「袈裟懸松」があって3人の見物人がいます。池畔の左奥には「千束神社」がみえます。

現在とは違って、当時の長閑な雰囲気がうかがわれます。

御袈裟懸松
歌川広重「千束の池袈裟懸松」



2016年5月17日火曜日

洗足池(2-114、東京都大田区南千束)

洗足池は大田区南千束にある天然の湖沼で、流れ込む川がない湧水池です。

池の周囲は1km余りで、散策するのにちょうどよい距離です。

日蓮聖人が身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中、池上の地に入ったときに池のほとりで休息し足を洗ったので、この名前がついたと言われています。

池ではボートに乗ることができ、周囲には「袈裟懸松」、「千束八幡宮」、「勝海舟夫妻の墓」、「西郷隆盛留魂碑」、「徳富蘇峰詩碑」など歴史的な史跡等が数多く点在しています。

洗足池全景
洗足池案内板

2016年5月16日月曜日

大坊本行寺(2-113、東京都大田区池上)

大坊本行寺は、池上本門寺の隣にある池上本門寺の子院で、理境院・照栄院と共に池上三院家のひとつで首席です。正面の赤門はその証しとして、当寺院の格式の高さを示しています。

池上本門寺と違って参拝者もまばらで落ち着いた雰囲気です。境内には日蓮聖人ゆかりの諸堂が建立されています。
日蓮宗本山 池上 大坊 本行寺は、日蓮宗の宗祖である日蓮聖人がご入滅(にゅうめつ)、すなわちご臨終された地(ご霊場)。日蓮聖人の滅後、池上宗仲公は日朗の弟子・日澄に館を寄進してお寺としました。こうして誕生したのが「長崇山 本行寺」(通称「大坊」)です。
日蓮聖人がご入滅された池上家の仏間跡に建てられたお堂は、「ご臨終の間」と呼ばれ、昭和11年(1936年)3月、東京都の史跡に指定されました。また、聖人ご入滅時に時ならぬ花を咲かせた桜は、今も「お会式桜(おえしきざくら)」として敷地内に現存しており、旧暦10月頃に花を咲かせます。~本行寺HPより
御硯井戸は、日蓮聖人が身延山からご到着した翌日、この井戸の水で墨をすり、9年の間庇護をした波木井実長公にあてた礼状などをしたためたとのことです。

御灰骨堂(おはいこつどう)には、日蓮聖人入滅の後、遺体を荼毘(だび)にふした際の灰を収取し、安置してあるそうです。

赤門

本堂

御硯井戸

旅着堂

御灰骨堂

ご臨終の間

大坊本行寺の解説板

2016年5月15日日曜日

池上本門寺(2-112、東京都大田区池上)

池上本門寺は寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきました。
池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。
日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。
長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。~池上本門寺HPより
日蓮聖人は、『鵜飼』、 『現在七面』、『身延』のワキとして登場します。また、日蓮聖人に因んだ旧跡も全国に数多く点在します。当ブログでも少しずつ、ご紹介していきたいと思います。

池上本門寺は非常に大きなお寺で、威風堂々として荘厳な印象の本堂や仁王門などの堂舎は、参拝者を大きく包み込んでくれるようです。

仁王門

本堂

経蔵

日蓮聖人御廟所

多宝塔

2016年5月14日土曜日

湯島聖天心城院(2-091、東京都文京区湯島)

湯島天神男坂下に天台宗湯島聖天心城院があります。

ここに長井の庄にいた斎藤別当実盛の別邸があったということです。

ビルや民家に囲まれて当時の面影はありませんが、「斎藤実盛別邸址」として訪ねることができるのは幸せなことです。

なお、長井の庄(埼玉県熊谷市妻沼)のことは後日、記事にまとめようと思っています。
元禄7(1694)年、湯島天神別当職の天台宗喜見院第三世宥海大僧都が、道真公と因縁浅からざる聖天さまを湯島天神境内に奉安するために開基されたのが当山のはじめで、本尊の聖天さまは比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられています。江戸城を築城した太田道灌の時代には、現在の境内池が湯島天神の表門に当り、また道灌の皓月亭跡とも伝えられています。当時の喜見院は相当な境域がありましたが、明治の神仏分離令の影響で廃寺になりました。喜見院の隠居的役割をもった当山も廃寺の運命にありましたが、湯島天神との本末関係を断つのみで、その難を逃れました。単独の寺院として歩みだした当山は、建立当時の因縁により天台宗に属し、寺名を「心城院」に改めました。~「略縁起」より
境内の放生池について、江戸時代の文献『御府内備考』『江戸志』に宝珠弁財天 男坂下「江戸砂子にいう、此処の池は長井実盛(後に斎藤別当実盛になる)庭前の池と伝う。昔は余程の池なりしを近世其の形のみ少しばかり残りたり」と記され、かつての池は太鼓橋が架かるほどの規模でした。~「御由緒書」より
現在の放生池はミニチュア版といったところでしょうか。
江戸時代の文献『江戸砂子』・『御府内備考』・『紫の一本(ひともと)』・『江戸志』などの「柳の井 男坂下」の項に、「この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけずると云う心にて、柳の井と名付けたり」と記されています。~心城院HPより
柳の井は水が絶えず流れ出ていました。

本堂を望む

本堂

本堂

解説板
放生池
放生池の解説板
柳の井