平安初期にインド、中国を荒らしまわった妖狐(九尾の狐)が日本に渡来し、「玉藻の前」(たまものまえ)という美女に化身。帝の寵愛を受けていたが、やがてその正体を見破られ、那須野が原に逃げ込んだ。
これを知った調停は、上総介広常、三浦介義純の両名に命じて妖狐を退治させた。狐は死して巨石となって、その怨念は毒気となって近づく人や家畜、鳥獣をも殺し続けた。
室町時代になって、これを伝え聞いた名僧玄翁和尚はこの地を訪ね、医師に済度、教化を授け、持っていた杖で一喝すると、石は3つに割れ、1つは会津へ、1つは備前にへと飛んでいき、残った1つがこの殺生石であると伝えられている。~那須町解説板より『おくのほそみち』 には「殺生石は温泉(いでゆ)の出づる山陰にあり、石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す」という記述があります。
殺生石のまわりには岩や石が累々としていて、殺伐とした不気味な風景です。生きものが近づくことを拒んでいるようです。
芭蕉の句碑「いしの香や なつ草あかく 露あつし」が立っています。また「飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上」が殺生石に向かって左側にありますが、これは芭蕉の作ではなく、越中の俳人麻父の作だそうです。
殺生石の近くに那須須温泉神社があります。ぜひ立ち寄ってみたいところです。
文治元年(1185)那須与一宗隆、源平合戦屋島の戦に温泉神社を祈願し見事扇の的を射、名声を轟かせ後、一門を挙げて熱く崇敬した。
建久四年(1193)源頼朝那須原巻狩の折、小山朝政の射止めし九岐大鹿角を奉納。
元禄二年(1689)に芭蕉は温泉神社に参詣、那須与一奉納の鏑矢等の宝物を拝観、殺生石を見物等が曽良の随行日記に載せられている。~温泉神社由緒より境内には芭蕉がここで詠んだ「湯をむすぶ 誓もおなじ石清水」の句碑があります。
規模は大きくはありませんが、立派な風格のある佇まいの神社です。
殺生石 |
殺生石 |
殺生石 |
殺生石の解説板 |
殺生石園地の地図 |
「いしの香や なつ草あかく 露あつし」芭蕉 |
「飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上」 |
那須与一宗隆奉献の鳥居(文治二年(1186)) |
温泉神社本殿 |
温泉神社本殿 |
由緒書 |
末社「九尾稲荷神社」 |
末社「九尾稲荷神社」 |
「湯をむすぶ 誓もおなじ石清水」芭蕉 |
句碑の解説板 |
「那須の五葉松」 |
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