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2019年1月16日水曜日

今井兼平墓(4-117、滋賀県大津市晴嵐)

今井兼平の墓はJR東海道線石山駅または京阪石山坂線京阪石山駅から徒歩3分の人家が疎らな細い盛越川のほとりに立っています。石柱で囲われた立派な墓です。
今井兼平(1152?-84)は木曽義仲と乳兄弟にあたる平安時代末期の武将で、木曽の四天王とも呼ばれていた人物です。寿永三年(1184)、粟津で範頼、義経軍に包囲されて義仲とともに戦って悲壮な最期を遂げました。義仲が討たれたことを知ると、自ら刀を口に逆立てて馬から飛び降りたという話は、謡曲「兼平」の素材となって語られています。(公社びわこビジターズビューローHPから引用)
江戸時代になって、兼平を尊敬した膳所藩主本多俊次が墓を建立したと伝えられています。

入口の石板

兼平墓

兼平墓

解説板

解説板

謡曲史跡保存会の駒札




2016年6月5日日曜日

山吹姫之墓(5-000、埼玉県比企郡嵐山町鎌形、班渓寺)

班渓寺は、木曽義仲の室・山吹姫の菩提寺であるとか、山吹姫が頼朝に殺害された息子の義高の供養のために開いた寺であるともいわれています。
山吹姫は木曽育ちの娘で、義仲とともに幾度かの合戦に従軍しました。 
山吹姫は建久元年(1190)11月22日にこの地で没しています。~班渓寺解説板より
境内には山吹姫の墓と伝えられる供養塔があります。

班渓寺の全景

班渓寺の説明板

木曽義仲公顕彰碑

山吹姫之墓の石柱

山吹姫之墓

2016年6月4日土曜日

伝木曽殿館跡(5-000、埼玉県比企郡嵐山町鎌形)

鎌形の斑渓寺の北東、道路沿いに「伝木曽殿館跡」の大きな立札があります。
昔からこの地は木曽殿(きそどん)と呼ばれ、駒王丸(木曽義仲)はここで生まれ、育てられていたと伝えられる場所です。 
館跡は台地上にありますが、崖の中腹には清水があり、木曽殿清水と呼ばれているそうです。
この地には大倉館の下屋敷が構えられており、源義賢の妻・小枝御前が住み義仲を生みました。~嵐山町HPおよび斑渓寺説明板より
「嵐山」の名は、京都の嵐山に風景が似ていることから、その名前がつけられたそうですが、本家とは異なり訪れる人も少なく、昔を偲ぶには絶好かもしれません。

⇒ 所在地のMap

伝木曽殿館跡

伝木曽殿館跡(右手)

右手は都幾川

竹藪の中



2016年6月3日金曜日

木曽義仲産湯清水(5-022、埼玉県比企郡嵐山町鎌形、鎌形八幡神社)


木曽義仲産湯清水は鎌形八幡神社の境内にあります。
鎌形八幡神社は奈良時代の創建と伝えています。その後は源氏の氏神として尊崇され、江戸時代には幕末より代々20石の朱印を受けていました。 
本殿は、拝殿に覆われており、室町時代の建築様式を伝え、ご神体として僧形八幡像を祀っています。
境内には木曽義仲産湯の清水と伝えられる泉があり、現在でも澄んだ水がこんこんと湧き出ています。~嵐山町観光協会HPより
鎌形八幡神社は、都幾川を隔てて大蔵館と対峙しています。

鎌形八幡神社


鎌形八幡神社の説明板

木曽義仲産湯清水の石碑

木曽義仲産湯清水
木曽義仲産湯清水

2016年6月1日水曜日

大蔵館跡(5-020、埼玉県比企郡嵐山町大蔵)

大蔵館は、源義賢が仁平3年(1153)~久寿2年(1155)の2年間住んでいました。

源義賢は、平安時代後期の清和源氏で、のちの木曽義仲の父です。

東宮の警護役の長官であったことから、その役職名であった帯刀先生(たてわきせんじょう)とも呼ばれていました。

現在の嵐山町の大蔵に居をかまえましたが、久寿2年(1155)の「大蔵の戦い」で、義朝(義堅の兄)の命を受けた15歳の長男義平に攻められて戦死しました(義平はこの叔父殺しで、悪源太義平と言われるようになったとか)。

当時2歳であった駒王丸(木曽義仲)は、危うく難を逃れて、長井の斎藤実盛によって木曽の中原兼遠に預けられました。

館跡には道路に面して「大蔵館跡」と刻んだ大きな石柱が立っています。

訪ねる人もなくひっそりとしていて、かつてここに賑やかな佇まいの館があり、その後に激しい戦があったとは想像もつきません。

⇒ 所在地のMap

「大蔵館跡」の石柱

「大蔵館跡」の説明板