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2016年5月20日金曜日

池月の銅像(いけづきのどうぞう、2-000、東京都大田区南千束、千束八幡神社)

「池月」は、「磨墨(するすみ)」と並ぶ名馬として平家物語にも登場します。

池月は頼朝から佐々木高綱に与えられて、同じく磨墨を与えられた梶原景季と宇治川の合戦(寿永3年(1184))で先陣争いをしました。

高綱・池月はこの争いに勝って一番乗りの栄誉を得ました。
治承4年(1180)、源頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中、この千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。
ある月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現れ、そのいななく声は天地を震わせるほどであった。家来たちがこれを捕らえて頼朝に献上した。馬体はたくましく、青毛に白い斑点を浮かべ、さながら池に映る月光のように美しかったので、池月と命名し頼朝の乗馬とした。~池月の銅像の解説板より
頼朝は先に磨墨を得て、さらにこの地で池月を得たのは平家討伐の吉兆と考えられました。将兵共々、旗を高く掲げて歓声が止まなかったとのことです。

千束八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と称するのはこの故事によるものです。

池月の銅像は千束八幡神社の裏手の洗足池を望むところに、また大きな池月の絵馬は境内に立っています。

⇒「磨墨」について

池月の像

池月の解説板

池月の絵馬

絵馬の解説札

2016年5月19日木曜日

千束八幡神社(2-000、東京都大田区

洗足池の西側の小高い丘の上に千束八幡神社があります。
貞観2年(860)に千束郷の総鎮守として創建された。
承平5年(935)、平将門の乱が起り、朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣された。
この乱の後に忠方は池畔に館を構え、八幡宮を氏神として祀り、館が池の上手に当たることから池上氏を呼称した。なお、この九代目の子孫が日蓮を身延から招請した池上康光(宗仲の父)である。
八幡太郎義家が奥羽征討(後三年の役)の際、この池でみそぎして、社前に額いて戦勝祈願をしたと伝えられている。
源頼朝も安房国から鎌倉に上る途中、この地が源氏の氏神である八幡宮であることを知って大いに喜び、此処に征平の旗幟(のぼり)を建てると、近郷から将兵が集まり鎌倉に入ることができたことから、「旗挙げ八幡」の別名がある。~御由緒書より
こじんまりとした神社で、訪れたのが平日であったためか参拝者もまばらでした。

石の鳥居

御由緒の石板

本殿

2016年5月18日水曜日

日蓮聖人袈裟懸松(2-114、東京都大田区南千束)

日蓮聖人袈裟懸松は、洗足池の東側にある星頂山妙福寺にあります。
日蓮聖人が見延山から常陸の温泉に向かわれる途中、公安5年(1282)9月18日千束池を御通りがかりになりました。兼ねて聖人に信伏しておられた池上右衛門大夫宗仲の館も近づき、そのうえ、丘と水のおりなす池の絶景に思わず馬を止められ、旅装束をといて、池畔の老松に法衣をかけ、澄みきった池水で手足をお洗いになりました。これが洗足池の名のおこりです。
その瞬間不思議なことに波一つたっていない水面が俄に渦を巻きはじめ、蛇形をなして水柱となるや、中から眉間白毫相(みけんびゃくごうそう)の光を放つ天女がご出現、聖人合掌して御題目をおとなえあそばせば「九年間聖人を守護して参りました見延七面山頂の湖水に住む水神七面天女遥遥道中のため御守護してお供して参りました」とお明かしになりました。聖人これに応えて法華経提婆達多品を読誦されるや、法華経を信ずる者を末法末永く加護することを御宣言になり水中に消え失せられました。時の舎人このことを後世に伝えようと聖人御入滅後にこの地に来たって小堂を営み七面天女を安置しました。これが当山のはじまりであります。~日蓮宗東京都南部宗務所「管内寺院紹介」HPより
現在の松は3代目だそうです。

洗足池と袈裟懸松は江戸時代の浮世絵『江戸百景』(冬景)でも「千束の池袈裟懸松」として歌川広重が描いています。右手に「袈裟懸松」があって3人の見物人がいます。池畔の左奥には「千束神社」がみえます。

現在とは違って、当時の長閑な雰囲気がうかがわれます。

御袈裟懸松
歌川広重「千束の池袈裟懸松」



2016年5月17日火曜日

洗足池(2-114、東京都大田区南千束)

洗足池は大田区南千束にある天然の湖沼で、流れ込む川がない湧水池です。

池の周囲は1km余りで、散策するのにちょうどよい距離です。

日蓮聖人が身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中、池上の地に入ったときに池のほとりで休息し足を洗ったので、この名前がついたと言われています。

池ではボートに乗ることができ、周囲には「袈裟懸松」、「千束八幡宮」、「勝海舟夫妻の墓」、「西郷隆盛留魂碑」、「徳富蘇峰詩碑」など歴史的な史跡等が数多く点在しています。

洗足池全景
洗足池案内板

2016年5月16日月曜日

大坊本行寺(2-113、東京都大田区池上)

大坊本行寺は、池上本門寺の隣にある池上本門寺の子院で、理境院・照栄院と共に池上三院家のひとつで首席です。正面の赤門はその証しとして、当寺院の格式の高さを示しています。

池上本門寺と違って参拝者もまばらで落ち着いた雰囲気です。境内には日蓮聖人ゆかりの諸堂が建立されています。
日蓮宗本山 池上 大坊 本行寺は、日蓮宗の宗祖である日蓮聖人がご入滅(にゅうめつ)、すなわちご臨終された地(ご霊場)。日蓮聖人の滅後、池上宗仲公は日朗の弟子・日澄に館を寄進してお寺としました。こうして誕生したのが「長崇山 本行寺」(通称「大坊」)です。
日蓮聖人がご入滅された池上家の仏間跡に建てられたお堂は、「ご臨終の間」と呼ばれ、昭和11年(1936年)3月、東京都の史跡に指定されました。また、聖人ご入滅時に時ならぬ花を咲かせた桜は、今も「お会式桜(おえしきざくら)」として敷地内に現存しており、旧暦10月頃に花を咲かせます。~本行寺HPより
御硯井戸は、日蓮聖人が身延山からご到着した翌日、この井戸の水で墨をすり、9年の間庇護をした波木井実長公にあてた礼状などをしたためたとのことです。

御灰骨堂(おはいこつどう)には、日蓮聖人入滅の後、遺体を荼毘(だび)にふした際の灰を収取し、安置してあるそうです。

赤門

本堂

御硯井戸

旅着堂

御灰骨堂

ご臨終の間

大坊本行寺の解説板

2016年5月15日日曜日

池上本門寺(2-112、東京都大田区池上)

池上本門寺は寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきました。
池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。
日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。
長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。~池上本門寺HPより
日蓮聖人は、『鵜飼』、 『現在七面』、『身延』のワキとして登場します。また、日蓮聖人に因んだ旧跡も全国に数多く点在します。当ブログでも少しずつ、ご紹介していきたいと思います。

池上本門寺は非常に大きなお寺で、威風堂々として荘厳な印象の本堂や仁王門などの堂舎は、参拝者を大きく包み込んでくれるようです。

仁王門

本堂

経蔵

日蓮聖人御廟所

多宝塔

2016年5月14日土曜日

湯島聖天心城院(2-091、東京都文京区湯島)

湯島天神男坂下に天台宗湯島聖天心城院があります。

ここに長井の庄にいた斎藤別当実盛の別邸があったということです。

ビルや民家に囲まれて当時の面影はありませんが、「斎藤実盛別邸址」として訪ねることができるのは幸せなことです。

なお、長井の庄(埼玉県熊谷市妻沼)のことは後日、記事にまとめようと思っています。
元禄7(1694)年、湯島天神別当職の天台宗喜見院第三世宥海大僧都が、道真公と因縁浅からざる聖天さまを湯島天神境内に奉安するために開基されたのが当山のはじめで、本尊の聖天さまは比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられています。江戸城を築城した太田道灌の時代には、現在の境内池が湯島天神の表門に当り、また道灌の皓月亭跡とも伝えられています。当時の喜見院は相当な境域がありましたが、明治の神仏分離令の影響で廃寺になりました。喜見院の隠居的役割をもった当山も廃寺の運命にありましたが、湯島天神との本末関係を断つのみで、その難を逃れました。単独の寺院として歩みだした当山は、建立当時の因縁により天台宗に属し、寺名を「心城院」に改めました。~「略縁起」より
境内の放生池について、江戸時代の文献『御府内備考』『江戸志』に宝珠弁財天 男坂下「江戸砂子にいう、此処の池は長井実盛(後に斎藤別当実盛になる)庭前の池と伝う。昔は余程の池なりしを近世其の形のみ少しばかり残りたり」と記され、かつての池は太鼓橋が架かるほどの規模でした。~「御由緒書」より
現在の放生池はミニチュア版といったところでしょうか。
江戸時代の文献『江戸砂子』・『御府内備考』・『紫の一本(ひともと)』・『江戸志』などの「柳の井 男坂下」の項に、「この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけずると云う心にて、柳の井と名付けたり」と記されています。~心城院HPより
柳の井は水が絶えず流れ出ていました。

本堂を望む

本堂

本堂

解説板
放生池
放生池の解説板
柳の井

2016年5月13日金曜日

鐙坂(あぶみざか、2-000、東京都大田区南馬込)

 鐙坂(あぶみ坂)は大田区南馬込にある勾配の緩やかな坂で、馬込桜並木通り交差点の日本たばこ営業所脇から上っていきます。

鐙は、馬具の一つで、鞍(くら)の両わきにさげて足を踏みかけるものです。
坂名は、鎌倉時代の武将、梶原景季(かじわらのかげすえ、1162~1200)の愛馬、磨墨(するすみ)の鐙が落ちたという伝説にちなむ鐙谷の地名から名づけられました。鐙谷は臼田坂上バス停あたりから南西の低い地の一帯をいいます。
坂自体は、大正13年頃に行われた耕地整理によってできたもので、それ以前は幅1メートルほどの農道でした。その農道も坂下から先は水田であったそうです。~大田区HPより
文京区にも鐙坂がありますが、こちらは坂のカーブが鐙の形に似ているためという説があります。

梶原源太景季や「磨墨」の名前が出てくる大田区の鐙坂の方が、ロマンに溢れているように感じら
れます。

 ⇒ 所在地(坂下の起点)のMap

坂下から鐙坂を望む


鐙坂の解説文
坂上から鐙坂を望む

2016年5月12日木曜日

磨墨塚(するすみづか、2-000、東京都大田区南馬込)

東急のバス路線沿い、住宅やビルの間に少し土を盛った上に磨墨塚があります。
磨墨塚は、「磨墨」がこの地の産であったとも、またこの地で死んだとも伝承されています。これにちなんで、明治33年(1900年)に馬込村の人々により碑が建てられました。~大田区HPより
頼朝から梶原源太景季は名馬「磨墨」を賜った後、宇治川の戦いで磨墨に乗って佐々木高綱と先陣争いをしました。

塚の住所は、 大田区南馬込三丁目18番21号。 ⇒ 所在地のMap

この辺りを、景季は磨墨に騎乗して、疾走していたのでしょうか。

住宅街の中にある磨墨塚

磨墨塚



2016年5月11日水曜日

磨墨の像(するすみのぞう、2-000、東京都大田区西馬込、萬福寺)

源氏の武将である梶原景時と息子の梶原源太景季はともに源平の合戦に出陣して多くの武勲を上げたため、頼朝は恩賞として頼朝の名馬の磨墨(するすみ)を景季に、生唼(いけづき「池月」とも書く)を佐々木高綱に与えました。

宇治川の戦いでのそれぞれに騎乗した景季と高綱の先陣争いは有名です。
歴史に名だたる宇治川の先陣争いに梶原源太景季が乗った名馬「磨墨」は、古来わが明宝気良の産と語り伝えられている。
今からおよそ八百年前、某家の牝馬が気良の北方烏帽子岳の麓、巣河の地において天馬の種を宿し生まれたのが磨墨である。その名のとおり色あくまで黒く精悍な容姿であった。磨墨は、毎朝自分で厩栓棒を外し巣河に向かって走り、蘭とも蛍草とも言われる霊草を食み、大滝の奥の乳白色の霊泉を飲み、形質ともに類のない駿馬になった。~岐阜県郡上市・明宝観光協会HPより
写真の「磨墨」像は南馬込の萬福寺山門脇にあります。

「磨墨」像

「磨墨」の解説板



2016年5月10日火曜日

梶原景時墓(2-115、東京都大田区南馬込、萬福寺)

萬福寺の開基、梶原平三景時の墓が境内にあります。墓地の一番高いところに立派な五輪塔。

戒名は萬福寺殿香山不陰大居士、命日は清水狐崎で討たれた日の正治2年(1200)正月20日と記されています。
梶原景時は鎌倉初期の武将。源頼朝の家人。平三と称。平家追討に功があった。源義経を讒し、また結城朝光を頼家に讒したが、朝光は諸将と連署してその誣告(ぶこく)を訴え、鎌倉から追放。駿河国狐崎に一族とともに討死。~「広辞苑」岩波書店より
『吉野静』では、「抑も景時が、その讒言の水上を、思えば渡邊や、流るる水に滿潮の、逆櫓立てんと浮舟の、梶原の申しごと、よも順義にて候はじ。」

『船弁慶』では、「御兄弟の御仲日月の如く御座あるべきを。言い甲斐なきものの讒言により。御仲違われ候こと。返す返すも口惜しき次第にて候。」

というように、英雄視される義経に対して景時は憎まれ役のイメージが定着しているようです。

しかし一方で、歌舞伎の『梶原平三誉石切』や『箙(えびら)』では好感を持てる人物として登場あるいは紹介されています。

その『箙』では、「抑もこの生田の森は、平家十萬餘騎の大手なりしに、源氏の方に梶原平三景時、同じく源太景季、色異なる梅花のありしを、一枝手折り箙にさす」と梶原父子の颯爽とした姿を描いています。
当山開基梶原平三景時公は源頼朝公の重臣。鎌倉幕府の代表的な武将。平家の武将であった景時公は、戦に敗れ伊豆の山中のほこらに隠れていた頼朝公と目が合った一瞬に息が通じ、それまで敵であったその命を救ったのです。その後常に頼朝公の傍らに在り、鎌倉幕府設立に大きな貢献をしました。~萬福寺御由緒書より
以上のように、対照的な記述をされる景時に魅力を感じます。

梶原景時墓
景時の墓の説明板
命日の刻字
五輪塔と戒名を記した石塔

2016年5月9日月曜日

慈眼山萬福寺(2-115、東京都大田区南馬込)

都営浅草線馬込駅から徒歩15分のところに萬福寺があります。

山門は、四脚門、切妻造り、茅葺屋根、総欅造りでそれほど大きくはありませんが、重厚な構えです。
 当山は、建久元年(1190)に梶原平三景時公により梶原家相伝の阿弥陀如来三尊仏をご本尊とし、大井村丸山の地に建立されました。元応2年(1320)の火災後、第6代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込に移転したとされています。天文3年(1534)鎌倉の禅僧明堂文龍大和尚により従来の密教寺院から曹洞宗に改め再興されました。~「御由緒書」より
本尊の阿弥陀如来三尊仏は、天平勝宝3年(751)に中国から日本に伝来し、平家の祖である国香の手に渡り、それを国香の後裔である梶原景時が相伝したそうです。

山門
のぼり

本堂
萬福抄録の碑
縁起

境内案内図

2016年5月8日日曜日

五條天神社(2-095、東京都台東区上野公園)

上野公園のなかにある神社です。

弁天堂や清水観音堂の賑やかさとは対照的に参拝者も疎らなか、荘厳な雰囲気を醸しだしています。
当社は、景行天皇の御代、日本武尊が蝦夷征伐の為、武蔵忍ヶ岡を御通行の際、大己貴命、少彦名命の大神が奇瑞を現し、難儀を救い給うたことに感じ、両神をお祀りなされましたのがその創祀であります。相殿にお祀りしてあります菅公は、江戸初期、寛永18(1641)年に合祀になりました。~「御由緒書」より 
五條天神社は古くから「天の神」を祀ることにより「五條天神」と呼ばれているのであって、菅原道真を合祀したので「天神」(様)ではないということです。

鳥居の脇

鳥居内から境内を望む

本殿

五條天神社御由緒