ラベル Y-義経 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Y-義経 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年4月9日日曜日

河越氏館跡(5-019、埼玉県川越市大字上戸、常楽寺および河越館跡史跡公園)

入間川の西側に河越氏館跡があります。

現在の常楽寺(かつての河越氏の持仏堂)と河越館跡史跡公園にまたがる広大な場所です。

常楽寺は、河越氏が創建した持仏堂が嘉元三年(1305)に時宗常楽寺に改称されたものだそうです。

境内には河越重頼、源義経の正室となった重頼の娘(京姫)、および義経の3人の供養塔があります。

常楽寺の裏側には河越館跡史跡公園が広がっていて、屋敷や堀、井戸の跡についての解説板がぽつぽつと立っています。

重頼の時代の河越氏の隆盛ぶりを体感できる風景です。

詳細な解説がなされ、きちんと保存されていることに感心しました。

河越館跡碑

常楽寺山門

仁王門

本堂

重頼・京姫・義経供養塔

供養塔碑

河越氏館跡史跡公園

解説板(河越館跡をイメージ)

解説板(河越氏)

解説板(史蹟河越館跡整備)

解説板(発掘調査)

堀跡

解説板(井戸跡)

井戸跡

解説板(塚状遺構)

解説板(館の堀)

堀跡

解説板(周辺の歴史)

解説板(周辺の歴史)

解説板(周辺の歴史)





2017年3月26日日曜日

河越氏菩提寺(5-018、埼玉県川越市元町、養寿院)

河越氏菩提寺である養寿院は、寛元元年(1243年)、秩父平氏の末裔である河越次郎経重(遠江守、河越太郎重頼の曾孫)が開基となった寺で、川越菓子屋横丁の西側に位置しています。

本堂の左手の奥には、「伝 河越太郎重頼の墓」があります。
河越氏は、板東八平氏の一つ秩父氏の出で、重頼の祖父重隆のころに川越に進出し、河越氏を名乗った。
河越氏は源頼朝が挙兵した当時、敵対していたが、重頼の妻が頼朝の乳母・比企禅尼の娘であったこともあり、後に頼朝方について平氏を追討、鎌倉幕府の樹立に力を尽くした。重頼の娘は、義経の正妻に選ばれて上洛するが、頼朝・義経が不和になると、重頼は誅殺させ、所領は没収された。~小江戸川越観光推進協議会駒札から
重頼の子重房は、父とともに義経に従って平家追討の軍に加わっています。 重房は謡曲『千手』クセに「名をこそ流せかわごえの、重房が手に渡り心の外の都入り」とあるように、一の谷で捕えた平重衡を都に護送している描写があります。

また、『平家物語』知章最後では、「修理大夫経盛の嫡子、皇后宮亮経正は、たすけ舟に乗らんと汀の方へ落ち給ひけるが、河越小太郎重房の手に取籠められうたれ給ひぬ」と一の谷で平経正を討った重房の名が登場します。

養寿院本堂

河越太郎重頼の墓

河越太郎重頼の墓の駒札

2017年1月5日木曜日

鞍馬寺(1-090、京都府京都市左京区鞍馬本町)

叡山電鉄の鞍馬駅を出ると大きな天狗が出迎えてくれます。

門前町を通り抜けると仁王門(山門)が聳え立っています。

ケーブルカーには乗らずに九十九折(つづらおり)参道を上っていくと、魔王の滝や鬼一法眼社が右手にあります。『義経記』では義経(幼名・牛若)は、兵法の大家、鬼一法眼から兵法書 『六韜』(りくとう) を盗み、学んだとされています。人形浄瑠璃文楽や歌舞伎の演目である「鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)」でこの場面が登場します。

左手にある由岐神社(別途紹介予定)の先には、牛若丸が住まいした東光坊跡に昭和十五年建立された義経供養塔があります。

中門をくぐってさらに進むと本殿金堂です。ここから左側の奥の院参道を息を切らしながら上っていきます。参拝社はぐっと減って、神秘的な雰囲気も高まります。

途中には、牛若丸が天狗に兵法を習うために深夜、独りで奥の院道を急ぎ、途中で息つぎのために湧水を飲んだ場所とされている息つぎの水や、奥州平泉の藤原秀衡を頼って鞍馬寺を出奔する際、名残を惜しんで、背比べをしたと伝えられる背比べ石があります。

参道の反対側には木の根道があります。牛若も「木の根道」で兵法修行をしたと伝えられています。ここまでくれば先は下りになるので歩みは楽になります。

広けた場所に、不動明王を祀った不動堂があります。また、奥州で死を遂げた義経の魂は鞍馬山に戻ったと伝えられており、遮那王尊として祀られている義経堂もあります。この辺りは牛若が天狗に兵法を習ったといわれる僧正ガ谷です。

魔王殿を過ぎて急坂を下ると、間もなく西門に到着。貴船神社は間近です。

鞍馬寺は義経(牛若)の伝承や旧跡のオンパレードで、テーマパークの感でした。時間を要しましたが、奥の院参道を歩いて満足感の溢れる参拝になりました。

鞍馬駅

鞍馬駅前の大天狗

仁王門

鞍馬寺の駒札

鞍馬寺の解説板

魔王の滝

魔王の滝

鬼一法眼社

鬼一法眼社

義経供養塔
奥の院参道入り口



息つぎの水

背比べ石

背比べ石

木の根道

不動堂

義経堂

謡曲史跡保存会の駒札

奥の院(魔王堂拝殿)

魔王堂





2017年1月3日火曜日

源義経産湯ノ遺址(1-000、京都府京都市北区紫竹牛若町)

源義経産湯ノ遺址(うぶゆのいし)は紫竹牛若町の住宅地のなかにあります。
この地は源義朝の別邸で、常盤が住んでいたところだったで、平治元年(1160)に義経(牛若)が誕生した時、この井戸水を産湯に汲み使った。~「源義経産湯ノ遺址」碑より
所在地のMap

源義経産湯ノ遺址


2017年1月1日日曜日

牛若丸誕生井・胞衣塚(1-116、京都府京都市北区紫竹牛若町)

牛若丸誕生井と胞衣(えな)塚は大徳寺の北、京都市北区紫竹牛若町のまわりを住宅や駐車場などに囲まれた畑にあります。

牛若丸誕生井は牛若丸(源義経の幼名)が誕生した場所とされ、産湯に使ったといわれる井戸です。大きな「牛若丸誕生井」の石碑の前には、小さな「牛若丸産湯井」の碑も立っています。

同じ畑地のなか牛若丸誕生井の少し離れた右側に大きな松が植えられています。この松の根元にあるのが胞衣塚で、 牛若丸の“へその緒”と“胎盤”が埋めてあると伝えられています。小さな碑には「牛若丸胞衣塚」と刻まれています。
牛若丸はこの地で平治元年(1159)生誕しました。
産湯井・胞衣塚塚と彫られた石碑には応永二年(1395)と年号が銘記され、京都で一番古い石碑と思います。
今は畑のなかですが、明治のころまで牛若丸産湯大弁財天社の小宮で、開運のご利益と崇められていました。~上野新三郎氏・由緒に関する説明板より
所在地のMap

牛若丸誕生井(牛若丸産湯井)

胞衣塚

胞衣塚

牛若丸誕生井と胞衣塚の由緒書

2016年11月1日火曜日

鼠ヶ関址(5-107、山形県鶴岡市鼠ケ関)

鼠ヶ関(ねずがせき)は日本海に面した、昔の越後と出羽との国境(現在は新潟県との県境の山形県鶴岡市、旧念珠関村)にあります。
鼠ヶ関には関所址が2ヶ所ある。県境にある古代の関所址と、国道7号線の鼠ヶ関交差点の角(鼠ヶ関字関)にある慶長年間(1596~1614)から明治5年(1872)まで設置されていた近世の関所址である。
このブログで関心があるのは、古代の関所の方です。
鼠ヶ関は、勿来関、白河関と並んで奥羽三大関門の一つとされていた。この鼠ヶ関が文献に現れる最も古いものは、能因法師の歌枕の「ねずみの関」であり、10世紀ころには文人や旅人に親しまれていた。 
大正13年(1924)近世の関所を主たる対象に、内務省より「史蹟念珠関址」として指定をうけ、それ以後この名称が古代から近世に至る関所名とされてきた。 
昭和43年(1968)10月、山形、新潟両県境一帯の発掘調査により古代関所址の存在が確認された。遺跡は、棚列址、建物址、須恵器窯跡、土器製塩址が地下1メートルほどの所に埋蔵されており、関所の軍事施設と高度の生産施設をもつ村の形態を備えていた。 
この遺跡の年代は、平安中期から鎌倉初期の10世紀から12世紀にわたっている。これらを総合して「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」と名付けられた。 
このように、古代の関所址の貌が明らかになったことから、関にある近世の関所址を「近世念珠関址」とし、「古代鼠ヶ関址」と区別することにした。~鼠ヶ関解説板より
鼠ヶ関の海岸近くには、近年建てられた義経が上陸したことを示す石碑が立っている。

古代鼠ヶ関碑の所在地Map

古代鼠ヶ関址
山形県・新潟県境標

近世念珠関址

近世念珠関址

鼠ヶ関の解説板
義経上陸の地碑
「義経上陸の地碑」の説明板

源義経碑

厳島神社