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2016年6月2日木曜日

源義堅墓(5-021、埼玉県比企郡嵐山町大蔵)

大蔵の戦いに敗れた源義堅の墓が大蔵館跡の近くの細い道を入った民家の敷地にあります。

屋根のある小さな祠の中に墓が収まっています。

高さは1m 程のこじんまりとした五輪塔です。

いたずら防止のためでしょうか、正面は鉄格子で囲われていてましたが、墓前には花や果物などが供えられるなど、きれいに手入れがされていて、地元の方から愛されている姿に微笑ましい気持ちになりました。

⇒ 所在地のMap

義堅の墓所

義堅の墓(五輪塔)

義堅の墓(五輪塔)

義堅の墓の説明板

義堅の墓の説明板

2016年6月1日水曜日

大蔵館跡(5-020、埼玉県比企郡嵐山町大蔵)

大蔵館は、源義賢が仁平3年(1153)~久寿2年(1155)の2年間住んでいました。

源義賢は、平安時代後期の清和源氏で、のちの木曽義仲の父です。

東宮の警護役の長官であったことから、その役職名であった帯刀先生(たてわきせんじょう)とも呼ばれていました。

現在の嵐山町の大蔵に居をかまえましたが、久寿2年(1155)の「大蔵の戦い」で、義朝(義堅の兄)の命を受けた15歳の長男義平に攻められて戦死しました(義平はこの叔父殺しで、悪源太義平と言われるようになったとか)。

当時2歳であった駒王丸(木曽義仲)は、危うく難を逃れて、長井の斎藤実盛によって木曽の中原兼遠に預けられました。

館跡には道路に面して「大蔵館跡」と刻んだ大きな石柱が立っています。

訪ねる人もなくひっそりとしていて、かつてここに賑やかな佇まいの館があり、その後に激しい戦があったとは想像もつきません。

⇒ 所在地のMap

「大蔵館跡」の石柱

「大蔵館跡」の説明板