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2019年4月1日月曜日

射落畠(3-114、香川県高松市牟礼町牟礼)

射落畠は、総門の南側の細道を東に数10歩行き、県道八栗・庵治線に突きあたる手前右側にあります。佐藤嗣信が義経の身代わりとなって射落とされたと伝わる場所です。
この地は源義経の四天王の一人佐藤嗣信戦死の場所である。嗣信は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔にして藤原秀衡に従う。嗣信は若くして知略兵法に通じ、豪勇の名を知られる。源義経陸奥に来て秀衡の庇護をうけ、後頼朝挙兵を援けるために都に上るに際し、父の命により嗣信・忠信の兄弟もこれに従う。連戦して平家を追い屋島壇ノ浦にいたり、敵将平教経の挑戦をうけ、義経の身代わりとして戦死。時に年二十八歳。(佐藤嗣信顕彰碑より引用)
平家物語では、「教経は義経を射落とそうとさんざんに射るが、一人当千の義経の家来たちが矢面に立ちふさがり、まっ先に進んだ嗣信が左の肩を右の脇の方へつっと射抜かれて暫しも耐えられず、馬からさかさまにどっと落ちた」と記しています。

義経は、わが身に代った嗣信の死を深く悼んで、僧をよんで供養し、秘蔵の馬を僧に与えます。部下に対する厚い温情に、つき従った武士たちも心から感銘し、わが命を犠牲にしても何の悔いもないことを誓いあったとのことです。

⇒ 所在地のMap

射落畠碑

射落畠の解説板

佐藤嗣信顕彰碑

2019年3月30日土曜日

総門址(3-113、香川県高松市牟礼町牟礼)

総門址は民家の立ち並ぶ細い道(旧庵治街道)の傍らにあります。標木は高松藩主松平頼重が立てたものだそうで、近くには立派な石碑と解説板が立っています。
寿永二年(1183)9月、平氏は安徳天皇を奉じて、屋島の行宮(内裏)ができるまで六萬寺を行在所とした。この時、ここに門を構えて海辺の防御に備え、また上陸の拠点とした。総門は、その遺跡である。源氏が平氏軍を急襲した際、ここはたちまち源氏軍の占領するところとなり、故に里人はここを源氏の総門という。(高松市HPより引用)
平家物語 巻第十一 「勝浦」の後半から「嗣信最後」の始めにかけて総門(惣門と記載)近辺での源平の戦の記述がみられます。
義経率いる源氏方が高松の民家に火を放つと、屋島に陣取っていた平家はこ敵が攻め寄せてくるとみて、総門の前の渚に並べてあった船に我も我もと乗り込んだ。(中略)その後、平教経は盛嗣をともなって小船に乗り、焼き払った総門の前の波打ち際に陣をとった。盛嗣が義経のことを「先年、平治の合戦で父が討たれ孤児となったが、鞍馬の稚児になり後には金商人に従って、食糧を背負い奥州を放浪して下った、あの小冠者」というと、源氏方の義盛は「おまえたちは、砺波山の合戦に追い落とされ、命からがら北陸道をさまよい、食を乞いながら泣く泣く京に逃げ上った者か」と言い合った。(参考:杉本圭三郎訳注『平家物語』)
総門址付近は埋め立てられ人家に埋もれてしまっているので、当時を偲ぶことはほとんど困難なように思えます。

総門址の標木

源平合戦総門碑

総門の解説板

2019年3月25日月曜日

屋島(3-112、香川県高松市屋島町)

屋島は今から約800年前の源平合戦の古戦場として有名です。屋島は海に突き出た台地で、頂きが平らな形をした特異な姿が遠くからも目を引きます。

屋島へは琴電屋島駅より車で約10分、高松中央ICより車で約30分、JR屋島駅・琴電屋島駅より屋島山上シャトルバスで10~18分です。
屋島の付け根にあたる部分を相引川が流れて、東側の壇ノ浦に注いでいる。相引川に沿って総門、射落畠、義経弓流し、菊王丸墓、安徳天皇社、佐藤継信墓など屋島の戦の一連の物語の跡が続いている。(青木実『謡蹟めぐり』西日本編より引用)
屋島の山上から眺めた源平古戦場跡(壇ノ浦)は今では沿岸に街並みが広がっていて、当時の合戦風景を偲ぶと「兵どもの夢が跡」の言葉が浮かんできます。

屋島山上からの壇ノ浦

壇ノ浦古戦場

古跡の地図

2019年3月24日日曜日

志度寺(3-123、香川県さぬき市志度)

謡曲「海士」の墓がある志度寺は四国八十八箇所霊場の第八十六番札所で、真言宗善通寺派の寺院です。瀬戸内海(志度湾)がすぐ近くにあり、JR志度駅より徒歩10分、琴電志度駅より徒歩8分です。
開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。 室町時代には、四国管領の細川氏の寄進により繁栄するが、戦国時代に荒廃。その後、藤原氏末裔、生駒親正(安土桃山時代、信長や秀吉などに仕える)による支援を経て、寛文10年(1671年)高松藩主松平頼重の寄進などにより再興されました。(四国霊場八十八ヶ所霊場公式HPより引用)
 海士の墓は本堂の左奥、境内の北西隅にあります。訪ねて驚いたのは、藤原房前が母のために建立したと言われる「海士の墓」が約20基並んでいるまわりを木の杭がぐるりと囲んでいて、まるで牢屋の中にお墓があるような痛ましい光景でした。

御朱印を頂いた時にお寺の方に聞いてみると、十数年前にお墓の石を削り取る行為が続いたため仕方なく採った対応策であるとのことでした。心無い行為に憤りを感じました。
天武の昔、淡海公藤原不比等は、唐の高宗妃から送られた面高不背の玉が、志度沖で龍神に奪われたため、身分を隠して都から志度の浦を訪れ、巡礼可憐な海女と恋仲になり、一子房前が生まれた。淡海公から事情を明かされた海女は、瀬戸の海にもぐり龍神とたたかって玉を取り返したが、命を果てた。
後年大臣となった房前は僧行基を連れて志度を訪れ、千基の石塔を建てて母の冥福を祈ったという。(さぬき市文化財保護協会の解説板より引用)

海女の墓

海女の墓(奥の木杭の中)

海女の墓解説板

謡曲史跡保存会の駒札

志度寺本堂