箕田氷川八幡神社(みだひかわはちまんじんじゃ)は、旧中山道を箕田追分(みだおいわけ)から南下して1.3キロのところにあります。
大きな鳥居をくぐって境内にはいると、大きな木々はほとんどなく面積の割には広々としていて明るく感じられます。
氷川八幡神社は、明治六年、当時箕田郷内に祀られていた氷川社、八万社など二十余社の社を併合して、箕田郷の郷社として八幡社のあった現在地に祀られたものである。渡辺綱は、大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名で、謡曲『羅生門』は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものです。
氷川社は、承平八年(938)清和天皇の孫である源経基が武蔵国の国介になってこと地に赴任して統治した際、大宮の氷川神社から勧請したと伝えられており、中宿地内に祀られていた。
八幡社は、源経基の臣下であった源仕(つかさ)が経基と相談して、天慶四年(941)現在地に京都の石清水八幡宮から勧請したもので、仕の孫の渡辺綱によって神田(しんでん、八幡田の地名あり)が寄進され再興されたものである。
源仕は嵯峨天皇の曾孫にあたり、平将門の乱や藤原純友の乱の平定に武功をあげ、武蔵国の国守に仁ぜれれてこの地に住んだものであり、渡辺綱は丹波の大江山に住む鬼を退治した逸話で有名な武将である。~箕田氷川八幡神社由緒より
渡辺綱は源宛(あたる、仕の子)の長子として天暦七年(953)に箕田に生まれた。幼くして両親を失ったため、母方の叔母である多田満仲の娘に引き取られた。摂津国渡辺庄で育ったことから渡辺姓を名乗った。幼少より勇名を馳せ、長じては源頼光に仕え、世に頼光四天王の第一と称され、豪勇で知られた。後に丹波守に任ぜられた。~鴻巣市教育委員会解説板より境内には辞世の句「世を経ても わけこし草の ゆかりあらば あとをたつねよ むさしののはら」を刻んだ箕田碑が本殿の左脇に立っています。
源仕をはじめとする源家三代の館(箕田館跡)は氷川八幡社の北側にあったと伝えられていますが、現在はまわりに住宅や墓地が迫りわずかな畑地が残るばかりで、当時を偲ぶことの出来るものはありませんでした。
箕田氷川八幡神社遠景 |
鳥居 |
本殿 |
鴻巣市教育委員会解説板 |
由緒書 |
箕田碑 |
箕田碑駒札 |
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