総門址は民家の立ち並ぶ細い道(旧庵治街道)の傍らにあります。標木は高松藩主松平頼重が立てたものだそうで、近くには立派な石碑と解説板が立っています。
寿永二年(1183)9月、平氏は安徳天皇を奉じて、屋島の行宮(内裏)ができるまで六萬寺を行在所とした。この時、ここに門を構えて海辺の防御に備え、また上陸の拠点とした。総門は、その遺跡である。源氏が平氏軍を急襲した際、ここはたちまち源氏軍の占領するところとなり、故に里人はここを源氏の総門という。(高松市HPより引用)
平家物語 巻第十一 「勝浦」の後半から「嗣信最後」の始めにかけて総門(惣門と記載)近辺での源平の戦の記述がみられます。
義経率いる源氏方が高松の民家に火を放つと、屋島に陣取っていた平家はこ敵が攻め寄せてくるとみて、総門の前の渚に並べてあった船に我も我もと乗り込んだ。(中略)その後、平教経は盛嗣をともなって小船に乗り、焼き払った総門の前の波打ち際に陣をとった。盛嗣が義経のことを「先年、平治の合戦で父が討たれ孤児となったが、鞍馬の稚児になり後には金商人に従って、食糧を背負い奥州を放浪して下った、あの小冠者」というと、源氏方の義盛は「おまえたちは、砺波山の合戦に追い落とされ、命からがら北陸道をさまよい、食を乞いながら泣く泣く京に逃げ上った者か」と言い合った。(参考:杉本圭三郎訳注『平家物語』)
総門址付近は埋め立てられ人家に埋もれてしまっているので、当時を偲ぶことはほとんど困難なように思えます。
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総門址の標木 |
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源平合戦総門碑 |
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総門の解説板 |
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