2017年1月14日土曜日

道成寺の鐘(1-086、京都府京都市左京区岩倉幡枝町、妙満寺)

安珍清姫で有名な「道成寺の鐘」は、右京区の妙満寺(みょうまんじ)にあります。
妙満寺は康応元年(1389)に日什上人が六条坊門室町(現在の烏丸五条あたり)に妙塔山妙満寺として建立したのが始まりです。 
妙満委はその後、天正十一年(1583)秀吉の時代に寺町二条に移され400年にわたり「寺町二条の妙満寺」と親しまれてきました。昭和43年(1968)に都市化のため、現在地に移転しました。~妙満寺由緒沿革より
「道成寺の鐘」は 当然、和歌山県日高町の道成寺に当然あると以前は思っていました。京都のお寺にあることを知って驚いた記憶があります。
醍醐天皇の延長六年(928)ハ月、奥州白河の「安珍」という修験者が熊野に参拝する途中、紀州室の郡・真砂の庄司清次の館に一宿を求めました。そのとき、庄司の娘「清姫」が安珍に思い寄せて言い寄りました。安珍は「熊野参拝を済ませたら、もう一度立ち寄る」と約束しましたが、その約束を破り立ち寄らずに帰途に就いてしまいました。
そのことを知った清姫は激怒して安珍の後を追いかけます。日高川にかかると清姫は蛇身となり、ものすごい形相で川を渡り、ついに道成寺の釣鐘に隠れた安珍を見つけます。清姫は、鐘をきりきりと巻くと、炎を吐き、三時あまりで鐘を真赤に焼き、安珍が黒焦となって死ぬのを見て、自らも日高川に身を投じてしまいました。 
この後、正平十四年(1359)三月十一日、源万寿丸の寄進で道成寺に二度目の鐘が完成した祝儀の席でのこと。一人の白拍子が現れ、舞いつつ金に近づきました。すると、白拍子は蛇身に身を変え、鐘を引きずり降ろすと、その中に姿を消しました。僧たちは「これぞ清姫の怨霊なり」と一心に祈念して、ようやく鐘は上がったのですが、せっかくの鐘も宿習の怨念のためか音が悪く、また近隣に悪病災厄などが相次いで起こったため山林に捨て去られました。 
その後、二百年余りを経た天正年間、秀吉の根来攻め(1585)の大将・仙石権兵衛秀久がこの鐘を拾って陣鐘として使い、そのまま京都に持ち帰りました。そして、安珍・清姫の怨念解脱のため、経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めました。そして、時の貫主の読経により怨念は解かれ、鳴音美しい霊鐘となった。~妙満寺展示室配布資料「「安珍清姫の鐘」について~その由来と詳細~」より
「道成寺の鐘」は展示室に納められています。高さは約105cm、直径約63cm、暑さ5.3cm、重さ約250kg。思いのほか小ぶりという印象でした。

ちなみに、紀州の道成寺ではその後三代目の鐘は作られずに、今でも鐘はありません。

妙満寺本堂

本堂からの眺め



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