2016年7月11日月曜日

日野資朝の墓(6-000、新潟県佐渡市阿佛房、妙宣寺)

能「壇風」に前シテ(宝生流ではツレ)として登場する日野資朝(ひのすけとも)の墓が妙宣寺にあります。

日野資朝は、後醍醐天皇の側近であり、討幕運動の中心人物の一人でした。

正中元年(1324)、倒幕を計画したとして、捕縛されて鎌倉へ護送され(正中の変)、翌年に佐渡へ流されました。

元弘元年(1331)に再び討幕計画が露見した元弘の乱によって、同2年/正慶元年(1332)に佐渡で処刑されました。後醍醐天皇も隠岐に流されました。

謡曲「壇風」の概略は次の通りです。
佐渡島の本間三郎は、元弘の変により流罪に処せられた壬生大納言資朝卿を預かっていたが、昨日鎌倉から飛脚が来て、北条氏の厳命を伝えたので、明日資朝卿を誅することになった。
おりから卿の一子梅若が都今熊野の帥阿闍梨に伴われて、この島に渡り、幸いにも父の生前に対面することができたが、卿はやがて誅せられてしまった。
梅若は本間を父の目前の敵として恨み、阿闍梨の助けをかりて、その夜本望を達し、船着場まで逃げのびて、まさに漕ぎ出ようとする船に便乗を求めたが、船頭は許さない。 
そこで、阿闍梨がその船を祈り戻そうと法力を使うと、三熊野権現が出現して、船を吹き戻し、二人を船に乗せるや、また順風を出して、片時のうちに若狭の浦に送りつけ、無事に都に帰された。~佐成謙太郎「謡曲大観」明治書院より
「壇風」の出典は、太平記巻二「長崎新左衛門尉意見事、附阿新殿事」とのことです。日野資朝の息子の名は太平記では梅若ではなく、阿新丸(くまわかまる)となっています。

単に読むのであれば、謡曲よりも太平記の方が迫力があります。謡曲はいわば台本なので当然でしょうか。

資朝の墓は正面からだと見上げるかたちになり、かつ扉が閉まっているので墓石が見えません。

横にまわって脇から墓石を覗いてみると意外に小さく、かわいらしいものでした。

正面から見た資朝の墓

脇から見た資朝の墓。大きな墓標と小さな墓石

解説板

資朝の歌碑「秋たけし檀の梢吹く風に澤田の里は紅葉しにけり」