胆沢城址(いさわじょうし)は、平泉・中尊寺から国道4号線(前沢バイパス)を20数キロ北上した奥州市内、県道270号線(奥州街道・陸羽街道)沿いにあります。
とはいっても、道の際に背丈を上回る「史跡 胆沢城跡」と刻まれた石柱と解説板が立ち、あとは田んぼの中に大きな空き地が広がっているだけなので、車だと注意しないと通り過ぎてしまう可能性があります。
草が短く刈り込まれていて、一見するとグランドかイベント会場のように見えます。しかし、よく見ると地面の起伏がある遺構であることがわかります。
所々に「政庁跡」「外郭南門」などの立札が立っています。
胆沢城は、平安時代はじめの延暦21年(802)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によってこの胆沢の地(現在の奥州市水沢区佐倉河)に造られた古代城柵(こだいじょうさく)です。
大同3年(808)には鎮守府が国府多賀城から胆沢城へ移され、鎮守府胆沢城が成立します。10世紀の後半ごろまでの150年間ほど機能していたと考えられています。大正11年(1922)に国の指定史跡となりました。
胆沢城は、高さ約3.9m、一辺675mの築地(ついじ)といわれる土で固めた塀とそのうち、外に掘られた幅3~5m、深さ1~1.5mの溝で方形に囲まれていました。全体の面積はおよそ46万㎡(東京ドーム9つ入る大きさ)あります。その内部は中央南寄りに一辺90m四方の塀で区画された政庁域(せいちょういき)、その脇に官衙(かんが)や厨屋(くりや)などが広がっていました。~奥州市埋蔵文化財調査センターHPより当時の状況を把握するためには、胆沢城跡の近くにある奥州市埋蔵文化財調査センターを訪ねることをお勧めします(入館料要)。 胆沢城の1/100復元模型が展示されています。
古代東北蝦夷の生活ぶり、約1,200年前に蝦夷のリーダーであった阿弖流為(あてるい)の朝朝廷側の坂上田村麻呂との戦いぶりなども紹介され、大変興味深い内容でした。
支配者側の朝廷や坂上田村麻呂の活躍にスポットが当てられがちですが、その対極にあった人々のこともあらためて認識することができます。
⇒ 所在地のMap
胆沢城跡 |
胆沢城跡の解説板 |
胆沢城跡 |
胆沢城跡の復元模型 |
エミシの解説(奥州市埋蔵文化財調査センター) |
0 件のコメント:
コメントを投稿