2016年5月13日金曜日

鐙坂(あぶみざか、2-000、東京都大田区南馬込)

 鐙坂(あぶみ坂)は大田区南馬込にある勾配の緩やかな坂で、馬込桜並木通り交差点の日本たばこ営業所脇から上っていきます。

鐙は、馬具の一つで、鞍(くら)の両わきにさげて足を踏みかけるものです。
坂名は、鎌倉時代の武将、梶原景季(かじわらのかげすえ、1162~1200)の愛馬、磨墨(するすみ)の鐙が落ちたという伝説にちなむ鐙谷の地名から名づけられました。鐙谷は臼田坂上バス停あたりから南西の低い地の一帯をいいます。
坂自体は、大正13年頃に行われた耕地整理によってできたもので、それ以前は幅1メートルほどの農道でした。その農道も坂下から先は水田であったそうです。~大田区HPより
文京区にも鐙坂がありますが、こちらは坂のカーブが鐙の形に似ているためという説があります。

梶原源太景季や「磨墨」の名前が出てくる大田区の鐙坂の方が、ロマンに溢れているように感じら
れます。

 ⇒ 所在地(坂下の起点)のMap

坂下から鐙坂を望む


鐙坂の解説文
坂上から鐙坂を望む

2016年5月12日木曜日

磨墨塚(するすみづか、2-000、東京都大田区南馬込)

東急のバス路線沿い、住宅やビルの間に少し土を盛った上に磨墨塚があります。
磨墨塚は、「磨墨」がこの地の産であったとも、またこの地で死んだとも伝承されています。これにちなんで、明治33年(1900年)に馬込村の人々により碑が建てられました。~大田区HPより
頼朝から梶原源太景季は名馬「磨墨」を賜った後、宇治川の戦いで磨墨に乗って佐々木高綱と先陣争いをしました。

塚の住所は、 大田区南馬込三丁目18番21号。 ⇒ 所在地のMap

この辺りを、景季は磨墨に騎乗して、疾走していたのでしょうか。

住宅街の中にある磨墨塚

磨墨塚



2016年5月11日水曜日

磨墨の像(するすみのぞう、2-000、東京都大田区西馬込、萬福寺)

源氏の武将である梶原景時と息子の梶原源太景季はともに源平の合戦に出陣して多くの武勲を上げたため、頼朝は恩賞として頼朝の名馬の磨墨(するすみ)を景季に、生唼(いけづき「池月」とも書く)を佐々木高綱に与えました。

宇治川の戦いでのそれぞれに騎乗した景季と高綱の先陣争いは有名です。
歴史に名だたる宇治川の先陣争いに梶原源太景季が乗った名馬「磨墨」は、古来わが明宝気良の産と語り伝えられている。
今からおよそ八百年前、某家の牝馬が気良の北方烏帽子岳の麓、巣河の地において天馬の種を宿し生まれたのが磨墨である。その名のとおり色あくまで黒く精悍な容姿であった。磨墨は、毎朝自分で厩栓棒を外し巣河に向かって走り、蘭とも蛍草とも言われる霊草を食み、大滝の奥の乳白色の霊泉を飲み、形質ともに類のない駿馬になった。~岐阜県郡上市・明宝観光協会HPより
写真の「磨墨」像は南馬込の萬福寺山門脇にあります。

「磨墨」像

「磨墨」の解説板



2016年5月10日火曜日

梶原景時墓(2-115、東京都大田区南馬込、萬福寺)

萬福寺の開基、梶原平三景時の墓が境内にあります。墓地の一番高いところに立派な五輪塔。

戒名は萬福寺殿香山不陰大居士、命日は清水狐崎で討たれた日の正治2年(1200)正月20日と記されています。
梶原景時は鎌倉初期の武将。源頼朝の家人。平三と称。平家追討に功があった。源義経を讒し、また結城朝光を頼家に讒したが、朝光は諸将と連署してその誣告(ぶこく)を訴え、鎌倉から追放。駿河国狐崎に一族とともに討死。~「広辞苑」岩波書店より
『吉野静』では、「抑も景時が、その讒言の水上を、思えば渡邊や、流るる水に滿潮の、逆櫓立てんと浮舟の、梶原の申しごと、よも順義にて候はじ。」

『船弁慶』では、「御兄弟の御仲日月の如く御座あるべきを。言い甲斐なきものの讒言により。御仲違われ候こと。返す返すも口惜しき次第にて候。」

というように、英雄視される義経に対して景時は憎まれ役のイメージが定着しているようです。

しかし一方で、歌舞伎の『梶原平三誉石切』や『箙(えびら)』では好感を持てる人物として登場あるいは紹介されています。

その『箙』では、「抑もこの生田の森は、平家十萬餘騎の大手なりしに、源氏の方に梶原平三景時、同じく源太景季、色異なる梅花のありしを、一枝手折り箙にさす」と梶原父子の颯爽とした姿を描いています。
当山開基梶原平三景時公は源頼朝公の重臣。鎌倉幕府の代表的な武将。平家の武将であった景時公は、戦に敗れ伊豆の山中のほこらに隠れていた頼朝公と目が合った一瞬に息が通じ、それまで敵であったその命を救ったのです。その後常に頼朝公の傍らに在り、鎌倉幕府設立に大きな貢献をしました。~萬福寺御由緒書より
以上のように、対照的な記述をされる景時に魅力を感じます。

梶原景時墓
景時の墓の説明板
命日の刻字
五輪塔と戒名を記した石塔

2016年5月9日月曜日

慈眼山萬福寺(2-115、東京都大田区南馬込)

都営浅草線馬込駅から徒歩15分のところに萬福寺があります。

山門は、四脚門、切妻造り、茅葺屋根、総欅造りでそれほど大きくはありませんが、重厚な構えです。
 当山は、建久元年(1190)に梶原平三景時公により梶原家相伝の阿弥陀如来三尊仏をご本尊とし、大井村丸山の地に建立されました。元応2年(1320)の火災後、第6代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込に移転したとされています。天文3年(1534)鎌倉の禅僧明堂文龍大和尚により従来の密教寺院から曹洞宗に改め再興されました。~「御由緒書」より
本尊の阿弥陀如来三尊仏は、天平勝宝3年(751)に中国から日本に伝来し、平家の祖である国香の手に渡り、それを国香の後裔である梶原景時が相伝したそうです。

山門
のぼり

本堂
萬福抄録の碑
縁起

境内案内図

2016年5月8日日曜日

五條天神社(2-095、東京都台東区上野公園)

上野公園のなかにある神社です。

弁天堂や清水観音堂の賑やかさとは対照的に参拝者も疎らなか、荘厳な雰囲気を醸しだしています。
当社は、景行天皇の御代、日本武尊が蝦夷征伐の為、武蔵忍ヶ岡を御通行の際、大己貴命、少彦名命の大神が奇瑞を現し、難儀を救い給うたことに感じ、両神をお祀りなされましたのがその創祀であります。相殿にお祀りしてあります菅公は、江戸初期、寛永18(1641)年に合祀になりました。~「御由緒書」より 
五條天神社は古くから「天の神」を祀ることにより「五條天神」と呼ばれているのであって、菅原道真を合祀したので「天神」(様)ではないということです。

鳥居の脇

鳥居内から境内を望む

本殿

五條天神社御由緒


2016年5月7日土曜日

不忍池弁天堂(2-094、東京都台東区上野公園)

清水観音堂から下に見える不忍池は琵琶湖を、弁天堂は竹生島を模したものといわれています。

不忍池弁天堂は、天海僧正が寛永年間に不忍池に中之島を築き、その地に建立されました。なお、現在のお堂は昭和33年に再建したものです。

本尊の八臂大弁財天は、竹生島の宝厳寺から勧請したものだそうです。

不忍池に浮かぶ弁天堂

不忍池弁天堂

弁天堂正面