当社は天慶九年、蝉丸を主神としてまつられている。蝉丸は盲目の琵琶法師であり、音曲芸道の祖神として平安末期の芸能にたずさわる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものである。その後、万治三年、現在の社が建立され、街道の守護神である猿田彦命を合祀している。(滋賀県神社庁HPより引用)かなり急な階段を上って鳥居をくぐった境内は広くはないですが、きちんと清掃や手入れがされていて、他に参拝者はおらず、静寂に包まれていました。
| 石柱 |
| 急な階段 |
| 鳥居 |
| 舞台越しに見た本殿 |
| 本殿 |
| 由緒書 |
当社は天慶九年、蝉丸を主神としてまつられている。蝉丸は盲目の琵琶法師であり、音曲芸道の祖神として平安末期の芸能にたずさわる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものである。その後、万治三年、現在の社が建立され、街道の守護神である猿田彦命を合祀している。(滋賀県神社庁HPより引用)かなり急な階段を上って鳥居をくぐった境内は広くはないですが、きちんと清掃や手入れがされていて、他に参拝者はおらず、静寂に包まれていました。
| 石柱 |
| 急な階段 |
| 鳥居 |
| 舞台越しに見た本殿 |
| 本殿 |
| 由緒書 |
古くから貴族や武将をはじめ、文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)がこの道を通過し、この関所や峠を題材にした作品が万葉集や古今集に多く残っています。中でも「これやこのゆくもかえるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関」という蝉丸(せみまる)の歌は、百人一首にも採りあげられて広く親しまれています。また、大津八景「関寺(せきでら)の晩鐘(ばんしょう)」「逢坂(おうさか)の暮雪(ぼせつ)」では、厳しかった逢坂越での美しい景観がうかがえます。 実際に関所があったのは、記念碑から少し大津寄りで関寺の付近であったのではないかといわれています。(公社びわこビジターズビューロー「滋賀県観光情報」より引用)国道をひっきりなしに車が行き交う交通の激しいところです。そのようななかで車の行き来が途絶えた一時に、歌が詠まれた時代の風景をイメージするもの一興ではないでしょうか。
「日本書紀」によれば、神功皇后の将軍・竹内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。平安時代に逢坂関がもうけられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。(逢坂の説明石柱より)⇒ 所在地のMap
| 逢坂関跡碑 |
| 「逢坂」の説明石注(逢坂山安養寺前) |
939(天慶2)年関東の武将・平将門が新皇と名乗り朝廷と敵対、平将門の乱が勃発します。乱世の中で人びとは、不安と混乱の中で生活していました。朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正は、弘法大師空海みずからが敬刻開眼した不動明王を捧持して京の都を出発。大坂から船に乗り、房総半島の尾垂ヶ浜に上陸します。年間1,000万人を超える参詣者が訪れるそうです。成田山は、成田国際空港から最寄り駅のJR成田駅および京成成田駅まで所要時間8分、さらに各駅から 徒歩10分という海外からの観光客が参拝するにも大変便利な立地です。
寛朝大僧正は、成田の地に御尊像を奉安し、御護摩を焚いて乱の21日間戦乱が鎮まるようにと祈願します。祈願最後の日、平将門が敗北して関東の地に再び平和が訪れます。寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ、御尊像が磐石のごとく動かず、この地に留まるよう告げます。ここに成田山新勝寺が開山されたのです。~大本山成田山HP、「開山縁起」より
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| 総門 |
| 仁王門 |
| 仁王門説明板 |
| 大本堂 |
| 釈迦堂 |
| 釈迦堂解説板 |
| 五百羅漢 |
| 二十四孝 |
| 五百羅漢 |
| 五百羅漢 |
| 五百羅漢 |
鹿島神宮の本殿が北向きに建てられているという特徴があります。これは、鹿島神宮の神様の勢力が未開の地であった東北に伸びるようにするためで、その後、順調に東北へ勢力を伸ばしたことから、鹿島神宮は日本建国の節目地点とされています。そこから「物事の始まり」にご利益がある神社とされ、「鹿島立ち」の語源となりました。~茨城県観光物産協会HPより謡曲『右近』『放生川』のワキは「 そもそもこれは鹿島の神職(筑波)の何某(なにがし)とはわがことなり」と名乗ります。
| 大鳥居 |
| 案内板 |
| 楼門 |
| 境内案内 |
| 本殿・拝殿 |
| 奥宮 |
| 奥宮 |
| 要石の標柱 |
| 要石 |
| 要石 |
| 御手洗池 |
| 御手洗池 |
| 境内案内図 |
親鸞上人旧跡
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室町時代の応安四年(1371)に、結城氏の招きで結城を訪れ、安穏寺(あんのんじ)を禅宗の寺に改めて開山しました。墓は2メートル程の卵塔でずっしりとた構えの立派なものです。
源翁和尚は、安穏寺に4年間滞在した後、会津へ行き、さらに那須では、悪い煙を噴き上げて人や鳥獣に害を与えていた殺生石を二つに割り、石の中にいた悪霊を成仏させた人物として知られています。
このことは、源翁和尚とその門人たちが石工に関係があり、周囲に職人達がいたことをうかがわせます。
また、殺生石にまつわる伝説は、民話、能、浄瑠璃などに取り上げられ、全国的に知られており、このことから石を砕いたりする鎚を「げんのう」と呼ぶようになったいわれています。~結城市教育委員会の解説板より
| 源翁和尚墓 |
| 墓への入口 |
| 解説板 |
和名抄に青柳の名見ゆ。青柳氏住むに及び邑をなす。永享十年(五三一年前)室町時代六代将軍足利義教の世関東管領足利持氏に中郡荘磯部邑神主祐行花見物語献上持氏世阿弥元清に謡曲桜川を作らしむ。その中に「なほ青柳の糸桜」あり。磯部稲邑神社享保年中の縁起書桜川八景十二品中に青柳の糸桜あり。此地鹿島街道筋桜川の辺中郡の要塞たり。桜樹齢五○○年を超ゆるもの稀なり。糸桜(枝垂桜)は彼岸桜の変種なり。この碑によれば三世もすでに植樹されてから半世紀弱の時を経ていることになります。
二世の桜樹枯死するを痛み郷の人達胥謀りて明治維新百年を記念し三世の若木を磯部より移植する。子孫克く遺志を継ぎ愛護維持に努められんことを。
あたら桜の。あたら桜のとがは散るぞ怨みなる。花も憂し風もつらし。散れば誘う.誘えば散る花鬘(かずら)。かけてのみ眺めしは。なほ青柳の糸桜。霞の間には。樺桜。雲と見しは。三吉野の。三吉野の。三吉野の。川淀滝つ波の。花を掬はばもし。国栖魚(くずいを)やかからまし。または桜魚(さくらいを)と。聞くも懐しや。いずれも白妙の。花も桜も。雪も波も見ながらに。掬ひ集め持ちたれども。これは木木の花.まことはわが尋ぬる。桜子ぞ恋しき。わが桜子ぞ.恋しき。訪れた時は雨上がりで、少し霞がかかっているようで大変趣きがありました。
| 青柳糸桜の遠景 |
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| 青柳糸桜 |
| 青柳糸桜 |
| 石碑 |
| 二世の青柳糸桜 |
いかなる日照りが続いても水の涸れることがないという。
花園天皇(1308-1318)の頃、夫木和歌抄に「みせみせぬ鏡ヶ池におしとりはみつから顔をならべてぞいる」は歌聖紀貫之の桜川の和歌とともに有名である。~岩瀬町観光協会の解説板より小さな池ですが、訪れる人もなく、桜の花が静まり返った水面に映る風景は趣きのあるものでした。