源義賢は、平安時代後期の清和源氏で、のちの木曽義仲の父です。
東宮の警護役の長官であったことから、その役職名であった帯刀先生(たてわきせんじょう)とも呼ばれていました。
現在の嵐山町の大蔵に居をかまえましたが、久寿2年(1155)の「大蔵の戦い」で、義朝(義堅の兄)の命を受けた15歳の長男義平に攻められて戦死しました(義平はこの叔父殺しで、悪源太義平と言われるようになったとか)。
当時2歳であった駒王丸(木曽義仲)は、危うく難を逃れて、長井の斎藤実盛によって木曽の中原兼遠に預けられました。
館跡には道路に面して「大蔵館跡」と刻んだ大きな石柱が立っています。
訪ねる人もなくひっそりとしていて、かつてここに賑やかな佇まいの館があり、その後に激しい戦があったとは想像もつきません。
⇒ 所在地のMap
「大蔵館跡」の石柱 |
「大蔵館跡」の説明板 |