栃木県の那須といえば、弓の名手である那須与一(なすのよいち)の名前を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
那須与一は、源平屋島の合戦で、平家方の船に立てられた竿の先につけた扇を海岸近くの馬上から矢を放ち、見事に射切りました。
この間の距離は80メートル。的となる扇は船上にあるために波で揺れ、風もかなり激しかったようです。
平家物語は、次のように描写しています。
与一は目をとじて、「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、わが国の神々、日光権現(にっこうごんげん)、宇都宮の明神、那須の湯泉大明神(ゆせんだいみょうじん)、どうかあの扇のまん中を射させてください。もしこれを射そこなうことがあれば、弓を切り折って自害し、人にふたたび顔を合わせぬ覚悟です。もう一度本国へ帰らせてやろうとお思いでしたら、この矢をはずさせなさらないでください」と心の中で祈念して、目を見ひらくと、風もすこし弱まって、扇も射やすそうになった。
与一は鏑矢(かぶらや)をとり弓につがえ引きしぼってひょうと射放った。小柄ではあるが、十二束三伏の矢を強い弓で放ったので、鏑矢は浦一帯に響くほど長く鳴って、あやまたずに扇の要ぎわから一寸ばかりのところを、ひいふつと射切った。
鏑矢は海に落ち、扇は空に舞いあがって、しばらく空中にひらめいていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散ったのであった。
夕日の輝くなかを、皆紅色の地に金色の日の丸を描いた扇が白波の上に漂い、浮きたり沈んだりして揺られていくと、沖では平家が船ばたをたたいて感嘆した。陸では源氏が箙をたたいて歓声をあげた。 ~ 杉本圭三郎全訳注『平家物語』講談社学術文庫より
(注)箙 ・・・ 矢を入れて背負う武具与一の墓は、一族の墓とともに並んで、玄性寺(げんしょうじ)の高台にあります。
墓銘碑 |
墓銘碑 |
那須与一宗隆墓 |
右から父・資景、同室、与一宗隆の墓(供養塔) |