静御前については、文治2年(1186)3月に北条時政によって京都から鎌倉へ召し出されて、義経の消息についての取り調べ、鶴岡八幡宮における頼朝・政子の前での舞、義経の子(男児)の出産(直後に殺害)、などの出来事が鎌倉の地でありました。
同年9月に京都へ戻った後の足跡は定かではなく、全国各地に静御前に関する史跡や墓が点在しています。
義経は兄頼朝の不興を蒙り、奥州平泉の藤原氏を頼って京都から落ちのびました。静は義経を慕って京都を発ち、平泉に向かいました。
途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都へ戻ろうとしました。
しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気になり、文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。~久喜市教育委員会・静御前遺跡保存会作成解説板より寺社の境内にある史跡ではないにもかかわらず、きちんと整備されて日々の手入れも十分になされていることが分かります。
静御前墓には小ぎれいな屋根がかけられています。
また、静御膳墓の左脇には義経招魂碑と静女御曹司供養塔もあり、3者が仲良く寄り添っているようです。
解説板も新しく、読みやすいものです。
なお、記念塔の脇には静御前の大きな絵が立てられ、さらに顔ハメ看板もあります。
これらは、せっかくの史跡を陳腐にしているようで、少々残念な印象を持ちました。
⇒ 所在地のMap
墓所の入口 |
静御前墓 |
記念塔 |
静女塚碑 |
義経招魂碑(左)と静女御曹司供養塔(右) |
義経招魂碑 |
静女御曹司供養塔 |
解説板 |