春日部八幡神社は東武野田線八木崎駅、春日部高校の東側にあります。
鳥居が立派で、参道はまっすぐに長く伸びて、まわりを杉の古木に囲まれています。境内はきれいに整備されていて、気持ちよく参拝できます。
隔年10月に、境内で薪能が奉納されているそうです。
今から約800年前ぐらい前、源頼朝が鎌倉に幕府を置いていた頃、粕壁の浜川戸に春日部重実という人がおり、大袋・大沢・桜井・新方・増林あたりを領地としていました。この重実の子に実景、そしてこの実景の孫に重行(春日部治部少輔時賢)という人がいました。彼は長い間相州(現在の神奈川県)にある鶴岡八幡宮を敬神していて、しばしばの合戦にもその霊護を蒙ったので、遥拝(はるかに礼拝すること)のため鎌倉時代元弘年間(1330年代)に鶴岡八幡宮を模してこの八幡神社を造営したと伝えられており、森の一部は彼の館跡と言われています。
又、参道中央部には鶴岡八幡宮の御神木の一枝が飛び来たり一夜のうちに繁茂したと伝えられる大銀杏が空高くそびえています。
昔は、新方四十余郷の総鎮守で代々領主の守護神社であり、その後しばしばの栄枯盛衰もありましたが、現在は春日部の総鎮守となっています。~同神社HP「由緒略記」より
参道入口の左側に「都鳥歌碑」があります。歌碑は2m程の高さです。
「名にしおはばいざ言問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」
この歌は、在原業平(平安初期の歌人)が奥州に旅をしたとき、武蔵国と下総国との境にある隅田川の渡しで詠んだものです。往古当神社の辺りが両国の境になっており、奥州への通路にもなっていました。この石碑は、その故事を後世に伝えんと、江戸末期嘉永6年(1853)粕壁宿の名主関根孝熙が千種正三位源有功(ちくさありこと)に依頼し由緒をあらわしたものです。~歌碑説明板より
千種有功は江戸時代の公卿、歌人で、碑文には「伊勢物語」の上記「名にしおはば」ではなく、有功の「とはれつるあとだにとめよ都鳥 むかしはとほきわたりなりとも」が由緒にともに刻んであります。
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参道前 |
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一の鳥居 |
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二の鳥居 |
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由緒の説明板 |
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本殿 |
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大銀杏 |
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奥の院 |
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奥の院記念碑
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都鳥歌碑 |
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都鳥歌碑 |
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都鳥歌碑 |