2017年1月7日土曜日

由岐神社(1-000、京都府京都市左京区鞍馬本町、鞍馬寺)

由岐神社(ゆきじんじゃ)は鞍馬寺の九十九折(つづらおり)参道の中ほどにあります。
由岐神社の祭神の「靫明神」(ゆきみょうじん)は、天慶三年(940)天慶の乱が起きたので朱雀天皇の勅により、鞍馬寺に遷宮し、北方鎮護を仰せつかった鎮守社です。~由緒書より
階段左手には見上げるほどの立派な大杉社があります。

豊臣秀頼が再建した拝殿は国の重要文化財に指定されています。

鳥居

大杉社

大杉社

拝殿

駒札

由緒書

由緒書



2017年1月5日木曜日

鞍馬寺(1-090、京都府京都市左京区鞍馬本町)

叡山電鉄の鞍馬駅を出ると大きな天狗が出迎えてくれます。

門前町を通り抜けると仁王門(山門)が聳え立っています。

ケーブルカーには乗らずに九十九折(つづらおり)参道を上っていくと、魔王の滝や鬼一法眼社が右手にあります。『義経記』では義経(幼名・牛若)は、兵法の大家、鬼一法眼から兵法書 『六韜』(りくとう) を盗み、学んだとされています。人形浄瑠璃文楽や歌舞伎の演目である「鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)」でこの場面が登場します。

左手にある由岐神社(別途紹介予定)の先には、牛若丸が住まいした東光坊跡に昭和十五年建立された義経供養塔があります。

中門をくぐってさらに進むと本殿金堂です。ここから左側の奥の院参道を息を切らしながら上っていきます。参拝社はぐっと減って、神秘的な雰囲気も高まります。

途中には、牛若丸が天狗に兵法を習うために深夜、独りで奥の院道を急ぎ、途中で息つぎのために湧水を飲んだ場所とされている息つぎの水や、奥州平泉の藤原秀衡を頼って鞍馬寺を出奔する際、名残を惜しんで、背比べをしたと伝えられる背比べ石があります。

参道の反対側には木の根道があります。牛若も「木の根道」で兵法修行をしたと伝えられています。ここまでくれば先は下りになるので歩みは楽になります。

広けた場所に、不動明王を祀った不動堂があります。また、奥州で死を遂げた義経の魂は鞍馬山に戻ったと伝えられており、遮那王尊として祀られている義経堂もあります。この辺りは牛若が天狗に兵法を習ったといわれる僧正ガ谷です。

魔王殿を過ぎて急坂を下ると、間もなく西門に到着。貴船神社は間近です。

鞍馬寺は義経(牛若)の伝承や旧跡のオンパレードで、テーマパークの感でした。時間を要しましたが、奥の院参道を歩いて満足感の溢れる参拝になりました。

鞍馬駅

鞍馬駅前の大天狗

仁王門

鞍馬寺の駒札

鞍馬寺の解説板

魔王の滝

魔王の滝

鬼一法眼社

鬼一法眼社

義経供養塔
奥の院参道入り口



息つぎの水

背比べ石

背比べ石

木の根道

不動堂

義経堂

謡曲史跡保存会の駒札

奥の院(魔王堂拝殿)

魔王堂





2017年1月3日火曜日

源義経産湯ノ遺址(1-000、京都府京都市北区紫竹牛若町)

源義経産湯ノ遺址(うぶゆのいし)は紫竹牛若町の住宅地のなかにあります。
この地は源義朝の別邸で、常盤が住んでいたところだったで、平治元年(1160)に義経(牛若)が誕生した時、この井戸水を産湯に汲み使った。~「源義経産湯ノ遺址」碑より
⇒ 所在地のMap

源義経産湯ノ遺址


2017年1月1日日曜日

牛若丸誕生井・胞衣塚(1-116、京都府京都市北区紫竹牛若町)

牛若丸誕生井と胞衣(えな)塚は大徳寺の北、京都市北区紫竹牛若町のまわりを住宅や駐車場などに囲まれた畑にあります。

牛若丸誕生井は牛若丸(源義経の幼名)が誕生した場所とされ、産湯に使ったといわれる井戸です。大きな「牛若丸誕生井」の石碑の前には、小さな「牛若丸産湯井」の碑も立っています。

同じ畑地のなか牛若丸誕生井の少し離れた右側に大きな松が植えられています。この松の根元にあるのが胞衣塚で、 牛若丸の“へその緒”と“胎盤”が埋めてあると伝えられています。小さな碑には「牛若丸胞衣塚」と刻まれています。
牛若丸はこの地で平治元年(1159)生誕しました。
産湯井・胞衣塚塚と彫られた石碑には応永二年(1395)と年号が銘記され、京都で一番古い石碑と思います。
今は畑のなかですが、明治のころまで牛若丸産湯大弁財天社の小宮で、開運のご利益と崇められていました。~上野新三郎氏・由緒に関する説明板より
⇒ 所在地のMap

牛若丸誕生井(牛若丸産湯井)

胞衣塚

胞衣塚

牛若丸誕生井と胞衣塚の由緒書

2016年12月31日土曜日

源頼光塚(1-000、京都府京都市北区紫野十二坊町、上品蓮台寺)

源頼光朝臣塚(みなもとのよりみつあそんつか)は、上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)の境内墓地の北側にあります。

源頼光(948~1021、「らいこう」との読みも)は平安中期の武将で、大江山酒顛童子退治の主人公として名を馳せ、国守を歴任しています。
謡曲「土蜘蛛」では、頼光が原因不明の熱病で臥しているところへ、化身した土蜘蛛ノ精があらわれ襲ってきたので、頼光は銘刀膝丸で斬りつけた。
血のあとをたどって、家来の渡辺綱ら四天王が追って行くと“北野のうしろ”に大きな塚があって、大きな山蜘蛛があらわれ、これを退治したことが、述べられているが、その塚が、ここにあったといわれ、一名「蜘蛛塚」ともいう。
北野とは、この辺り一帯の禁野(しめの)の一つで、ちょううど、ここが北野のうしろに当たる。もと千本鞍馬口西入にあったのを、昭和の初め、ここに移した。~謡曲史跡保存会の駒札より
源頼光朝臣塚

源頼光朝臣塚

謡曲史跡保存会の駒札



2016年12月29日木曜日

土蜘蛛塚(1-000、京都府京都市上京区今小路御前西入上観音寺門前、東向観音寺)

東向観音寺は北野天満宮の一の鳥居を抜けて楼門の手前を左に向かっていくとあります。

参拝客で賑やかな北野天満宮とは対照的に、東向観音寺はひっそりとしています。
寺伝によると延暦二五年(806)に桓武天皇の勅を奉じて藤原小黒麿らが皇城鎮護のために建立され、当初は朝日寺と呼ばれていた。
天暦元年(947)に朝日寺の僧、最鎮らが天満宮を建立した後の応和元年(961)、筑紫の観世音寺より菅原道真公御作の十一面観世音菩薩を請来し安置された。
応長元年(1311)、無人如導宗師が中興し、花園・後醍醐・光厳・光明の四天皇信仰深く筑紫の観世音寺に擬して観世音寺または観音寺と改称し、天満宮御本地仏・北野神宮寺または、奥之院とも称した。
本堂が東を向くことから東向観音と称されるようになる。
元は、東向・西向(一夜松の観世音菩薩安置と伝える)の両堂あったが、応仁の乱や火災等で焼失し、西向きは再興されず東向観音堂のみ再建された。
江戸時代の後期頃より寺名は、朝日山観音寺となった。~東向観音寺HPより
本殿の左手奥に、土蜘蛛塚(つちぐもつか)があります。
蜘蛛灯篭(くもとうろう)が、もと七本松通一条にあって、源頼光(みなもとのよりみつ)を悩ました土蜘蛛が棲んでいるところといわれた。明治年間に、この塚を発掘したところ、石仏や墓標の破片したものが出土し何等参考になるものはなかった。その時の遺物が、ここにある「火袋」で、当時、ある人が貰いうけ庭に飾っていたところ家運が傾き“土蜘蛛の祟り”といわれたので、東向観音寺に奉納したという。~謡曲史跡保存会の駒札より
この「火袋」が納められているのが土蜘蛛塚です。

土蜘蛛は、謡曲「土蜘蛛」に後シテとして登場します。

病で臥せっていた源頼光に刀で斬りつけられて消え失せた土蜘蛛は、退治に向かった独武者(ひとりむしゃ)に糸を繰り出して悩ませますが、遂には斬り伏せられるというアクションドラマといってもよいような迫力ある演目です。

山門

本堂

土蜘蛛塚の遠景

土蜘蛛塚

謡曲史跡保存会の駒札




2016年12月27日火曜日

北野天満宮(1-079、京都府京都市上京区馬喰町)

北野天満宮は京福北野線の終点である北野白梅町駅から徒歩5分のところにあります。
北野天満宮は菅原道真公(菅公)をお祀りした神社で、祭神は菅原道真公、中将殿(道真公の子息)、吉祥女(道真公の夫人)です。「北野の天神さま」と呼ばれています。
平安時代中頃の天暦元年(947)に、京都に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ)や近江国比良宮の神主神良種(みのよしたね)、北野朝日寺の僧最珍(さいちん)らが、当初に神殿を建て、菅公をおまつりしたのが始まりとされます。
その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念されました。この時から「北野天満宮天神」の信号が認められました。~北野天満宮参拝の栞より
鳥居をくぐって楼門、さらに中門(三光門)を抜けると国宝に指定されている本殿です。慶長十二年(1607)に豊臣秀頼が造営したもので、秀吉からの継続事業の一端であったそうです。
菅原道真公は学者出身の政治家として手腕を発揮して異例の出世を重ね、昌泰二年(899)右大臣に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括します。ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰四年(901)太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。
菅公の清らかで誠実な人柄と晩年の不遇はさまざまな伝説を生み、やがては天神さまと崇められるようになりました。~同
 菅原道真を題材にした古典芸能では、謡曲「雷電」や人形浄瑠璃・歌舞伎の演目である「菅原伝授手習鑑」(すがわらでんじゅてならいかがみ)が有名です。
天神さまは古くは「雷神」(らいじん)と結びつき、神鳴(かみなり)さまとおそれられ、稲妻・稲光の語から雨をつかさどる「火雷天神」(からいてんじん)として、豊年を祈る人々の信仰を集めてきました。~同
北野天満宮の一の鳥居内東側広場は右近衛府の馬場跡で、鹿島の神職が右近の馬場の桜を眺めようと訪れた謡曲「右近」の場所です。

右近衛大将でもあった道真は好んでこの馬場に臨み、また清盛がこの地で催された馬市で名馬を見立て愛用した、とも伝えられています。

中門(三光門)

三光門の立札

本殿

右近馬場の駒札

右近馬場跡