謡曲「海士」の墓がある志度寺は四国八十八箇所霊場の第八十六番札所で、真言宗善通寺派の寺院です。瀬戸内海(志度湾)がすぐ近くにあり、JR志度駅より徒歩10分、琴電志度駅より徒歩8分です。
開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。 室町時代には、四国管領の細川氏の寄進により繁栄するが、戦国時代に荒廃。その後、藤原氏末裔、生駒親正(安土桃山時代、信長や秀吉などに仕える)による支援を経て、寛文10年(1671年)高松藩主松平頼重の寄進などにより再興されました。(四国霊場八十八ヶ所霊場公式HPより引用)
海士の墓は本堂の左奥、境内の北西隅にあります。訪ねて驚いたのは、藤原房前が母のために建立したと言われる「海士の墓」が約20基並んでいるまわりを木の杭がぐるりと囲んでいて、まるで牢屋の中にお墓があるような痛ましい光景でした。
御朱印を頂いた時にお寺の方に聞いてみると、十数年前にお墓の石を削り取る行為が続いたため仕方なく採った対応策であるとのことでした。心無い行為に憤りを感じました。
天武の昔、淡海公藤原不比等は、唐の高宗妃から送られた面高不背の玉が、志度沖で龍神に奪われたため、身分を隠して都から志度の浦を訪れ、巡礼可憐な海女と恋仲になり、一子房前が生まれた。淡海公から事情を明かされた海女は、瀬戸の海にもぐり龍神とたたかって玉を取り返したが、命を果てた。
後年大臣となった房前は僧行基を連れて志度を訪れ、千基の石塔を建てて母の冥福を祈ったという。(さぬき市文化財保護協会の解説板より引用)
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海女の墓 |
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海女の墓(奥の木杭の中) |
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海女の墓解説板 |
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謡曲史跡保存会の駒札 |
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志度寺本堂 |
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