さらに、清凉寺は「源氏物語」の光源氏が造営した「嵯峨の御堂」に目される寺院でもあります。
僧奝然(ちょうねん)が周から持ち帰った釈迦像を祀るため奝然が歿した後、弟子の盛算が遺志を継いで清凉寺を開きました。
源融は、謡曲『融』の後シテに霊として登場します。
源融の墓と墓標 |
源融の墓 |
足に任せて行くほどに 都の西と聞こえつる 嵯峨野の寺に参りつつ 四方の気色(けしき)を眺むれば 花の浮き木のかめやま(亀山)や 雲の流るる大堰川 まことに憂き世のさが(性。嵯峨)なれや 盛り過ぎ行く山桜 嵐の風まつのを(待・松尾) をぐら(小倉・小暗)の里の夕霞~「百万」クセ・新潮日本古典集集成「謡曲集」より百万という女物狂が、奈良からはるばる旅をして、春の嵯峨にやって来て、大念仏に集っている大勢の人の中に、我が子はいないのだろうかと嘆きます。
清凉寺本堂(釈迦堂) |
清凉寺の駒札 |
小督塚 |
小督塚の駒札 |
大堰川(桂川)に架かる渡月橋 |
正中の変の折、日野資朝(ひのすけとも)卿は当国(佐渡国)に配流され、一子阿新丸(くまわかまる)は父子対面を求めて遥々都から下向したにも拘らず、遂に許されぬ儘、父刑死の無念を霽らすべく城主本間山城守の館に潜入し、その弟三郎を斬って本懐を果した。
この間、大膳坊賢榮は真の敵は鎌倉なりと阿新丸を諭したが、その孝心の已み難きに感動してこれ を扶け、更に迫り来る討手窮追の危機の中に阿新丸を守護し、無事死中を脱して帰京せしめた。
山城守は激怒し大膳坊を処刑したが、その後大いに悔い畏れて、日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている。~大膳神社縁起より
大膳神社能舞台 |
松の絵に日輪を配した鏡板 |
大膳神社縁起 |
日野資朝の歌、「秋たけし壇の梢吹く風に 雑太の里は紅葉しにけり」から後に壇風城の美称がついた。~佐渡市教育委員会解説板より日野資朝の墓がある妙宣寺も「雑太城跡」となっていますが、こちらは戦国時代の城跡のようです。
壇風城跡 |
壇風城跡 |
壇風城跡の解説板 |
雑太城址の解説板(妙宣寺) |
日野資朝(すけとも)の子、阿新丸(くまわかまる)が本間三郎を刺して、竹を伝って濠を越え、しばらくこの松に隠れて追っ手を免れたという。~解説板より阿新丸隠れ松は根元近くを残すのみで、なかなか隠れている姿を想像するのは難しい状況です。
隠れ松 |
隠れ松の解説板 |
〈おまけ〉 竹を利用して濠を飛び越える阿新丸 |
〈おまけ〉 竹を利用して濠を飛び越える阿新丸 |
佐渡島の本間三郎は、元弘の変により流罪に処せられた壬生大納言資朝卿を預かっていたが、昨日鎌倉から飛脚が来て、北条氏の厳命を伝えたので、明日資朝卿を誅することになった。
おりから卿の一子梅若が都今熊野の帥阿闍梨に伴われて、この島に渡り、幸いにも父の生前に対面することができたが、卿はやがて誅せられてしまった。
梅若は本間を父の目前の敵として恨み、阿闍梨の助けをかりて、その夜本望を達し、船着場まで逃げのびて、まさに漕ぎ出ようとする船に便乗を求めたが、船頭は許さない。
そこで、阿闍梨がその船を祈り戻そうと法力を使うと、三熊野権現が出現して、船を吹き戻し、二人を船に乗せるや、また順風を出して、片時のうちに若狭の浦に送りつけ、無事に都に帰された。~佐成謙太郎「謡曲大観」明治書院より「壇風」の出典は、太平記巻二「長崎新左衛門尉意見事、附阿新殿事」とのことです。日野資朝の息子の名は太平記では梅若ではなく、阿新丸(くまわかまる)となっています。
正面から見た資朝の墓 |
脇から見た資朝の墓。大きな墓標と小さな墓石 |
解説板 |
資朝の歌碑「秋たけし檀の梢吹く風に澤田の里は紅葉しにけり」 |
初め金井新保にあったが、嘉暦元年(1326)雑太城主本間泰昌の居城付近に移り、後に今の地に移ったものである。
文永八年(1271)日蓮聖人佐渡配流の時、日得は妻 千日尼と共に深夜ひそかに食物を運びその厄難を救った話は有名である。~解説板より日蓮宗佐渡三本山の一つで、城址に移転新築後に蓮華王山妙宣寺と名乗りました。
山門 |
本堂 |
仁王門 |
五重塔 |
日得聖人の墓 |
五重塔解説板 |
配流は、大夫職継承をめぐって将軍足利義教の怒りに触れたためだとか、南北朝の政争に巻き込まれたものとか、推測が行われているが、真相は不詳。
佐渡に在島中に著した小謡曲舞集『金島書』によって永享8年(1436)2月に健在だったことが知られ、嘉吉元年(1441)6月に義教暗殺に伴い許されたものと想像されるが、確証はない。また、帰洛したか、どこで亡くなったか、墓所も不明である。~『能楽大辞典』筑摩書房、新版『能・狂言事典』平凡社より佐渡に流されてから、正法寺などの寺院に移り住んだとされ、 正法寺には世阿弥が腰をかけたと言われる腰掛石があります。
正法寺の山門 |
正法寺本堂の額編 |
神事面の解説 |
世阿弥腰掛石 |
経島は、日蓮聖人の赦免状を持って佐渡に渡ろうとした弟子の日朗が漂着し、読経して一夜を明かした所で、頂上には日朗の石像が安置されている。
矢島は良質の矢竹を産した所で、源頼政が紫宸殿の怪物「ぬえ」を退治した時の矢は、ここの竹製であったと伝えられている。~「佐渡市説明板」より矢島に竹林は見当たりませんでした。
小木海岸から。手前が経島、奥が矢島 |
経島(中央左)と矢島 |
日朗の石像(経島) |
矢島全景 |
経島にある説明板 |