2016年12月31日土曜日

源頼光塚(1-000、京都府京都市北区紫野十二坊町、上品蓮台寺)

源頼光朝臣塚(みなもとのよりみつあそんつか)は、上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)の境内墓地の北側にあります。

源頼光(948~1021、「らいこう」との読みも)は平安中期の武将で、大江山酒顛童子退治の主人公として名を馳せ、国守を歴任しています。
謡曲「土蜘蛛」では、頼光が原因不明の熱病で臥しているところへ、化身した土蜘蛛ノ精があらわれ襲ってきたので、頼光は銘刀膝丸で斬りつけた。
血のあとをたどって、家来の渡辺綱ら四天王が追って行くと“北野のうしろ”に大きな塚があって、大きな山蜘蛛があらわれ、これを退治したことが、述べられているが、その塚が、ここにあったといわれ、一名「蜘蛛塚」ともいう。
北野とは、この辺り一帯の禁野(しめの)の一つで、ちょううど、ここが北野のうしろに当たる。もと千本鞍馬口西入にあったのを、昭和の初め、ここに移した。~謡曲史跡保存会の駒札より
源頼光朝臣塚

源頼光朝臣塚

謡曲史跡保存会の駒札



2016年12月29日木曜日

土蜘蛛塚(1-000、京都府京都市上京区今小路御前西入上観音寺門前、東向観音寺)

東向観音寺は北野天満宮の一の鳥居を抜けて楼門の手前を左に向かっていくとあります。

参拝客で賑やかな北野天満宮とは対照的に、東向観音寺はひっそりとしています。
寺伝によると延暦二五年(806)に桓武天皇の勅を奉じて藤原小黒麿らが皇城鎮護のために建立され、当初は朝日寺と呼ばれていた。
天暦元年(947)に朝日寺の僧、最鎮らが天満宮を建立した後の応和元年(961)、筑紫の観世音寺より菅原道真公御作の十一面観世音菩薩を請来し安置された。
応長元年(1311)、無人如導宗師が中興し、花園・後醍醐・光厳・光明の四天皇信仰深く筑紫の観世音寺に擬して観世音寺または観音寺と改称し、天満宮御本地仏・北野神宮寺または、奥之院とも称した。
本堂が東を向くことから東向観音と称されるようになる。
元は、東向・西向(一夜松の観世音菩薩安置と伝える)の両堂あったが、応仁の乱や火災等で焼失し、西向きは再興されず東向観音堂のみ再建された。
江戸時代の後期頃より寺名は、朝日山観音寺となった。~東向観音寺HPより
本殿の左手奥に、土蜘蛛塚(つちぐもつか)があります。
蜘蛛灯篭(くもとうろう)が、もと七本松通一条にあって、源頼光(みなもとのよりみつ)を悩ました土蜘蛛が棲んでいるところといわれた。明治年間に、この塚を発掘したところ、石仏や墓標の破片したものが出土し何等参考になるものはなかった。その時の遺物が、ここにある「火袋」で、当時、ある人が貰いうけ庭に飾っていたところ家運が傾き“土蜘蛛の祟り”といわれたので、東向観音寺に奉納したという。~謡曲史跡保存会の駒札より
この「火袋」が納められているのが土蜘蛛塚です。

土蜘蛛は、謡曲「土蜘蛛」に後シテとして登場します。

病で臥せっていた源頼光に刀で斬りつけられて消え失せた土蜘蛛は、退治に向かった独武者(ひとりむしゃ)に糸を繰り出して悩ませますが、遂には斬り伏せられるというアクションドラマといってもよいような迫力ある演目です。

山門

本堂

土蜘蛛塚の遠景

土蜘蛛塚

謡曲史跡保存会の駒札




2016年12月27日火曜日

北野天満宮(1-079、京都府京都市上京区馬喰町)

北野天満宮は京福北野線の終点である北野白梅町駅から徒歩5分のところにあります。
北野天満宮は菅原道真公(菅公)をお祀りした神社で、祭神は菅原道真公、中将殿(道真公の子息)、吉祥女(道真公の夫人)です。「北野の天神さま」と呼ばれています。
平安時代中頃の天暦元年(947)に、京都に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ)や近江国比良宮の神主神良種(みのよしたね)、北野朝日寺の僧最珍(さいちん)らが、当初に神殿を建て、菅公をおまつりしたのが始まりとされます。
その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念されました。この時から「北野天満宮天神」の信号が認められました。~北野天満宮参拝の栞より
鳥居をくぐって楼門、さらに中門(三光門)を抜けると国宝に指定されている本殿です。慶長十二年(1607)に豊臣秀頼が造営したもので、秀吉からの継続事業の一端であったそうです。
菅原道真公は学者出身の政治家として手腕を発揮して異例の出世を重ね、昌泰二年(899)右大臣に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括します。ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰四年(901)太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。
菅公の清らかで誠実な人柄と晩年の不遇はさまざまな伝説を生み、やがては天神さまと崇められるようになりました。~同
 菅原道真を題材にした古典芸能では、謡曲「雷電」や人形浄瑠璃・歌舞伎の演目である「菅原伝授手習鑑」(すがわらでんじゅてならいかがみ)が有名です。
天神さまは古くは「雷神」(らいじん)と結びつき、神鳴(かみなり)さまとおそれられ、稲妻・稲光の語から雨をつかさどる「火雷天神」(からいてんじん)として、豊年を祈る人々の信仰を集めてきました。~同
北野天満宮の一の鳥居内東側広場は右近衛府の馬場跡で、鹿島の神職が右近の馬場の桜を眺めようと訪れた謡曲「右近」の場所です。

右近衛大将でもあった道真は好んでこの馬場に臨み、また清盛がこの地で催された馬市で名馬を見立て愛用した、とも伝えられています。

中門(三光門)

三光門の立札

本殿

右近馬場の駒札

右近馬場跡




2016年12月25日日曜日

仁和寺(1-099、京都府京都市右京区御室大内)

仁和寺(にんなじ)は京福北野線の御室仁和寺駅から北へ200メートル程のところにあります。

「きぬかけの路」に面した重要文化財の二王門をくぐって直進すると中門があり、さらに階段を上ると国宝の金堂が現れます。

どっしりとした構えの金堂には仁和寺の本尊である阿弥陀三尊が安置され、慶長年間造営の御所内裏紫宸殿を寛永年間に移築したものだそうです。

金堂の右手前には、重要文化財の五重塔が立っています。
仁和寺の歴史は平安時代、第58代光孝天皇が西山御願寺として着工されたのが始まりです。仁和四年(888)宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和寺を完成されました。宇多天皇は退位後、出家して仁和寺を住房とされ、真言密教の修行に励まれました。以来、明治維新まで皇子皇孫が仁和寺の門跡となられ、仁和寺は御室御所(おむろごしょ)とも呼ばれ親しまれてきました。
現在、仁和寺は真言宗御室派の総本山であり、平成六年(1994)に国連の世界遺産に登録されました。~仁和寺パンフレットより
二王門を入ってすぐ右側の宸殿から眺める南庭や北庭は、素晴らしい景観です。

仁和寺は謡曲「経正」に登場します。
仁和寺の守覚法親王(しゅかくほっしんのう)は、琵琶の名手である平経正(清盛の弟・教盛の長男)を少年の頃から寵愛されていました。ところが、一ノ谷での源平の合戦で経正が討たれたので、生前、法親王にお預けになった“青山”(せいざん)という琵琶の名器を仏前に供えて回向すると、その夜更けに経正の亡霊が現れて、手向けされた青山をなつかしく弾き、夜遊の舞ををまって興じます。しかしそれもつかの間、やがて修羅道での苦しみにおそわれ、憤怒の思いに戦う自分の姿を恥じ、灯火を吹き消して闇の中に消え失せます。~権藤芳一『能楽手帖』駸々堂出版より
「平家物語」 巻第七“経正都落”では、琵琶の名手として北征の途上、竹生島に秘曲を奉納した平経正が、幼いころ仕えた仁和寺の法親王との都落ちにあったての別離の場面が描かれています。

また、同“青山之沙汰”では琵琶の名器「青山」の由来を説いています。

二王門

五重塔

金堂

御室桜


御室桜解説板

宸殿から眺めた南庭

宸殿から眺めた北庭

庭園の解説文

宸殿から眺めた北庭

中門から見た二王門

二王門の解説板

境内の見取り図
仁和寺の駒札



2016年12月23日金曜日

福厳寺(5-000、栃木県足利市緑町)

多宝山福厳寺(ふくごんじ)はJR両毛線足利駅から西に2キロほどの所にあります。

寺の裏側は小高い山(足利公園)で、足利市街が一望できます。
福厳寺は、寿永元年(1182)藤姓足利(藤原系足利氏)四代目の足利又太郎忠綱が父俊綱と母の菩提(死後の冥福)を供養する為に理真上人を勧請開山として開創されたと寺伝に記録されております。 
その後、南北朝時代の康永二年(1343年)に鎌倉建長寺開山蘭渓道隆(大覚禅師)の法孫、實堂権禅師を開山として禅寺(臨済宗建長寺派)になり現在に至ります。足利義兼公(足利氏二代当主・尊氏は八代当主)と時子(北条政子の妹)の持仏と伝えられる子安観音を秘仏として祀られております。~福厳寺HPより
謡曲「頼政」には、宇治川橋の戦いでの忠綱の活躍ぶりが記されています。

福厳寺本堂

福厳寺の解説板


2016年12月21日水曜日

佐野源左衛門常世墓(5-076、栃木県佐野市鉢木、願成寺)

東武佐野線の終点である葛生駅。そこから北へ約2キロにある梅秀山願成寺の境内に佐野源左衛門常世の墓があります。

佐野源左衛門常世は謡曲「鉢木」のシテとして登場します。寺の住所も「鉢木町」です。
願成寺は藤原秀郷公の開基といわれており、建長年間に常世は衰微した寺を再興し、宗門を臨済宗となし、山号を梅秀山と号しました。常世は願成寺を菩提寺として、代々祖先の霊を厚くまつりました。~佐野市観光協会HPより
境内の釈迦堂の域内一段高いところに常世の墓があります。墓前に「 野源左衛門常世の墓 」と書かれた標柱が立っています。

墓域に据えられた角張った五輪塔は、大きくはありませんが重厚感があります。

参道入り口

本堂

佐野源左衛門常世墓

標柱

佐野源左衛門常世墓

解説板



2016年12月19日月曜日

皆沢八幡宮(5-075、群馬県桐生市梅田町)

桐生市の中心部から桐生川沿いに遡ると梅田湖があります。

さらに県道66号線を上っていくと、左手に古びた神社が見えてきます。

この神社が皆沢八幡宮(かいざわはちまんぐう)です。

社殿は彫刻が非常に見事で、鞘堂に収められています。
皆沢八幡宮は皆沢地区の要所に鎮座し、足利忠綱を祀っている。 
本殿は隅木入りの春日造で、正面向拝には唐破風を設け、浜床を持つ。軸部に彩色はないが、組み物から上は朱塗りされている。三手先の尾垂木には彩色された龍頭の彫刻が施されている。軸部の素木に村し、組物の朱、尾垂木や木鼻、腰組下持送、手扶の彩色など、その対比が鮮やかである。 
尾垂木の彫刻は虹梁絵様から18世紀後半の建立当初からのものと考えられる。身舎の壁面にはめこまれた彫刻は、縁が鋭い平面的な浮彫で、背面彫刻には「加(ママ)永四亥 三月廿九日出来上州勢多郡荻原村星野東渓(カ)行年八十才」の墨書がある。また、本殿床下内部の壁面には、建立時の原寸図と思われる組物と垂木を描いた墨書が確認された。 
本殿内部には忠綱明神像と伝えられる天文十二年(1543)の墨書がある木彫の神像が安置されている。~桐生市HPより
謡曲「頼政」に忠綱の活躍ぶりが記されています。以仁王を頂いて平家打倒の戦いに挑んだ源頼政は平家側の忠綱に宇治川の橋を破られて、平等院で自害しました。
田原の又太郎忠綱と名乗って、宇治川の先陣われなりと、名のりもあえず三百余騎 (略) 忠綱 兵(つわもの)を下知して曰く 水の逆巻く所をば 岩ありと知るべし 弱き馬をば下手に立てて 強きに水を防がせよ 流れん武者には弓筈を取らせ 互に力を合わすべしと ただ一人の下知によって さばかりの大河なれども 一騎も流れずこなたの岸に 喚いて(おののいて)上がれば・・・
皆沢八幡宮の社殿は確かに立派なのですが、過疎や氏子の減少のせいでしょうか、かなり痛みが進んでいるように思われました。

所在地のMap

鳥居

鞘堂の外観

社殿

社殿左側面の彫刻

社殿の足元の彫刻

解説板

2016年12月17日土曜日

静御前塚(5-069、群馬県前橋市岩神町)

観民稲荷神社(かんみんいなりじんじゃ)は、慶長6年(1601)に前橋城主酒井重忠が、城に水を引き込む風呂川の改修にあたって、その守護神として祀ったのが始まりとのことです。

その観民稲荷神社から北に100メートルほど行ったところに、静御前塚があります。自動車の往来が激しい道路から幅1メートルに満たない小道を少し入った草むらの中にありました。

高さが50センチメートルほどもない小さな祠は壊れかけていて、案内板も立っていません。この塚を取り上げているいくつかのブログなどを参考にしない限り、訪れるのは難度が高い場所だと思います。

この静御前塚は、観民稲荷神社の管理だといわれていますが、もう少し整備されればいいのにと思いながらこの地を後にしました。

所在地のMap

静御前塚の祠

静御前塚

静御前塚の祠(壊れている左柄側面、)

2016年11月26日土曜日

静御前墓(5-068、群馬県前橋市三河町、養行寺)

養行寺(ようぎょうじ)はJR前橋駅から北東へ400~500メートルのところにある法華宗の寺院です。

境内は静かで、きれいに整備されています

山門を入ってすぐの右手の築山のなかに静御前墓が立っています。

手前の石標には「静御前の塔」と刻まれています。

すらっとした端正な感じの五輪塔です。墓というよりは供養塔のようにも思われます。

特に解説板もなく、ひっそりと“佇んでいる姿”が印象的でした。


養行寺の山門

養行寺の本堂

静御前墓

静御前墓

2016年11月11日金曜日

佐野船橋(5-066、群馬県高崎市上佐野町)

船橋は、通路は木板の橋(橋梁は鉄骨)で、佐野窪町の上信電鉄の烏川鉄橋の下流に架かっています。

橋自体には昔の趣は残っていませんが、橋の上から望む妙義山の遠景や川の流れには心が癒されます。

謡曲「船橋」については、「佐野の船橋歌碑」の記事を参照してください。

所在地のMap

船橋の全景

船橋の木板

2016年11月9日水曜日

佐野源左衛門常世神社(5-063、群馬県高崎市上佐野町)

常世神社は佐野の船橋歌碑から歩いて数分、謡曲「鉢木」のシテとして登場する佐野源左衛門常世の宅跡と伝えられる場所に建っています。

とはいっても、現在では民家に囲まれています。
鎌倉時代、北条時頼の頃、この地に佐野源左衛門常世が住んでいた。 
時頼が旅僧に身をやつし行脚の途中、大雪に遭い、領地を横領され零落して、貧しいい暮らしの常世の家に一夜の宿を乞いた。その夜、燃やすものがなくて、鉢植えの梅、桜、松を燃やして温めもてなした。その時に常世が鎌倉に対する忠節心を旅僧に語った。 
その後、鎌倉から召集がかかり、常世は旅僧に語った通り、痩せ馬に乗り、破れた鎧をつけ、さびた長刀を持って、鎌倉に駆けつけた。 
時頼は常世の忠節を誉め、所領を返させるとともに、梅、桜、松にちなむ三箇の庄を与えた。~常世神社の説明板より
常世神社は非常にこじんまりしていますが、よく整備されていて、 地元から大事にされているように感じました。

所在地のMap

鳥居

本殿

説明板(鉢木の場面)

説明板

謡曲史跡保存会の駒札
本殿内部

歌碑