鹿ヶ谷の陰謀は安元3年(1177)6月に京都で起こった平家打倒の陰謀事件で、京都の東山鹿ヶ谷の静賢法印(信西の子)の山荘で謀議が行われました。
平康頼は、この陰謀に加担したことにより、平清盛によって鬼界ヶ島(薩摩国)へ俊寛僧都、丹波少将成常とともに配流されました。
治承二年(1178)に、俊寛を残して康頼と成常の2人だけが赦免されて京都に戻ることができました。この時の俊寛の悲痛な様子は、謡曲「俊寛」に描かれています。
康頼供養塔は高さ1.3メートルで、立派なものです。
大徳寺の境内は多くの人で賑わっていましたが、康頼供養塔に関心を持って眺める参拝客はほとんど見られませんでした。
平康頼供養塔 |
平康頼供養塔 |