謡曲「鵜飼」のなかに、「そもそもこの石和川と申すは、上下三里が間は堅く殺生禁断のところなり」とあります。
この上下三里は、法城山観音寺の寺領によって定められた範囲だそうです。
この観音寺は、かつては甲斐国有数の寺院で、七堂伽藍を備え、最盛期には塔頭12、末寺98ケ寺を数えたそうです。
現在は寺の前の広い敷地が笛吹市役所の公用車専用の駐車場になっていて、こじんまりとした新築の本堂が立っています。
なかなか往時を偲ぶことは難しい状況です。
参道入り口 |
左奥が本堂 |
石和町による解説板 |
鵜飼山遠妙寺は、文永十一年(1274)夏の頃、日蓮大上人が弟子の日朗日向の両上人と共に当国御巡化のみぎり、鵜飼漁翁(平大納言時忠郷)の亡霊に面接し、これを済度し即ち法華経一部八巻6万9380余字を河原の小石に一字ずつ書写され、鵜飼川の水底に沈め、三日三夜にわたり施餓鬼供養を営み、彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場であります。 ~由緒書より一字一石の塔は、手前に立つ白く真新しい「鵜供養塔」とは対照的に、黒ぽく落ち着いていてその功徳が感じられるようでした。
左奥に立つのが「一字一石の塔」 |
鵜飼山遠妙寺は、文永十一年(1274)夏の頃、日蓮大上人が弟子の日朗日向の両上人と共に当国御巡化のみぎり、鵜飼漁翁(平大納言時忠郷)の亡霊に面接し、これを済度し即ち法華経一部八巻6万9380余字を河原の小石に一字ずつ書写され、鵜飼川の水底に沈め、三日三夜にわたり施餓鬼供養を営み、彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場であります。
これにしたがって、当山は「宗門川施餓鬼根本道場」として広く信徒に知られ、また謡曲「鵜飼」はこの縁起によって作られたものであります。~由緒書より謡曲「鵜飼」はどのようなものでしょうか。
殺生を戒め、法華の功徳を説いた曲で、日蓮の高徳説話の一つである。
安房国(千葉県)清澄の僧(日蓮)が甲斐国(山梨県)石和に行き、川端の堂に泊まっていると鵜飼の老人が来る。従僧がこの老人は2、3年前に接待を受けた漁老に似ているというと、老人は実はその亡霊であるという。
僧が法華経の句を一石に一字を書いて川に投げ回向をしていると閻魔王が現れ、かの鵜飼は罪深くて地獄に堕つべきものであったが僧を接待した功徳によって、これからは極楽に送るのであると語る。~謡曲史跡保存会の駒札より
遠妙寺山門 |
山門脇に立つ石和町による解説板 |
仁王門 |
本堂 |
御硯水 |
漁翁堂(勘助の墓が収まる)と供養塔 |
由緒書 |
謡曲史跡保存会の駒札 |
およそ600年前ほどむかし、上釜口の芹沢に母親と二人暮らしの権三郎という孝行息子がいました。笛がたいそう好きで、また上手でした。ある晩、豪雨で氾濫した子西(ねとり)かわの濁流に母子はのみ込まれてしまいました。けれども若い権三郎は、権三郎の名を呼びながら流されていった母親のことが片時も忘れられず毎晩毎晩母親を探しました。母親の好きだった曲を吹きながら、ずっと川下の方まで川辺を探しまわったのです。
疲れきった権三郎は、ある日、川の深みで足をすべらすと、そのまま帰らぬ身となったのです。夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになったのは、権三郎が死んでからのことでした。村人たちは、いつかこの流れを笛吹川と呼ぶようになりました。
現在の笛吹川は、この地より東南方向800メートルのところを流れていますが、明治40年(1907)の大水害の前には、この地を流れていました。~いさわばしにある「笛吹権三郎の伝説」解説板より笛吹川は昔は蛇行していて、たびたびの洪水に近隣の住民は悩まされていましたが、長年の改修の結果、現在では直線の川幅の広い流れになっています。
笛吹権三郎の像 |
「笛吹権三郎の伝説」の説明板 |
石和橋がかかる平等川 |
鵜飼橋、欄干にこのような鵜のモニュメントがたくさん飾られている |
鵜飼橋より笛吹川下流を望む |
鵜飼勘作翁の像 |
平安初期にインド、中国を荒らしまわった妖狐(九尾の狐)が日本に渡来し、「玉藻の前」(たまものまえ)という美女に化身。帝の寵愛を受けていたが、やがてその正体を見破られ、那須野が原に逃げ込んだ。
これを知った調停は、上総介広常、三浦介義純の両名に命じて妖狐を退治させた。狐は死して巨石となって、その怨念は毒気となって近づく人や家畜、鳥獣をも殺し続けた。
室町時代になって、これを伝え聞いた名僧玄翁和尚はこの地を訪ね、医師に済度、教化を授け、持っていた杖で一喝すると、石は3つに割れ、1つは会津へ、1つは備前にへと飛んでいき、残った1つがこの殺生石であると伝えられている。~那須町解説板より『おくのほそみち』 には「殺生石は温泉(いでゆ)の出づる山陰にあり、石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す」という記述があります。
文治元年(1185)那須与一宗隆、源平合戦屋島の戦に温泉神社を祈願し見事扇の的を射、名声を轟かせ後、一門を挙げて熱く崇敬した。
建久四年(1193)源頼朝那須原巻狩の折、小山朝政の射止めし九岐大鹿角を奉納。
元禄二年(1689)に芭蕉は温泉神社に参詣、那須与一奉納の鏑矢等の宝物を拝観、殺生石を見物等が曽良の随行日記に載せられている。~温泉神社由緒より境内には芭蕉がここで詠んだ「湯をむすぶ 誓もおなじ石清水」の句碑があります。
殺生石 |
殺生石 |
殺生石 |
殺生石の解説板 |
殺生石園地の地図 |
「いしの香や なつ草あかく 露あつし」芭蕉 |
「飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上」 |
那須与一宗隆奉献の鳥居(文治二年(1186)) |
温泉神社本殿 |
温泉神社本殿 |
由緒書 |
末社「九尾稲荷神社」 |
末社「九尾稲荷神社」 |
「湯をむすぶ 誓もおなじ石清水」芭蕉 |
句碑の解説板 |
「那須の五葉松」 |
昔、狐の化身でありながらもその麗美な姿のため、帝にたいへん寵愛された玉藻の前という美女がいました。しかし、帝が病気の折の祈祷でその正体をあらわにした九尾の狐は、この地に逃げ込み、蝉(せみ)に身をかえ桜の木の陰に隠れていたのですが、池(鏡が池)に映った真の姿を見つけられ討たれてしまったということです。
鏡が池は、今もなお清らかな湧き水をたたえ、その名にふさわしく、水面に緑深き風景を映し出しながらひっそりと広がっています。~大田原市観光協会HPより
建久四年(1193)源頼朝が那須遊猟のときに、この社に参詣したと伝えられています。
また、元禄二年(1689)4月12日、松尾芭蕉は、この篠原の池を訪れています。『おくのほそみち』に「ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。」とあります。~解説板より境内に芭蕉の句碑「秣(まぐさ)おふ人を枝折の夏野かな」や源実朝の歌碑「武士(もののふ)の矢並み つくろふ 籠手の上に 霰たばしる那須の篠原」などがあります。
玉藻前稲荷神社の一の鳥居と参道 |
石の鳥居(左右の柱には由緒などが刻まれている) |
本堂 |
狛狐 |
狛狐 |
神社の解説板 |
「鏡が池」 |
「鏡が池」の解説板 |
「狐塚」の霊を移したという祠に通じる鳥居 |
「狐塚」の霊を移したという祠 |
実朝の歌碑と解説板 |
狐塚之址 |
狐塚之址 |