2016年11月26日土曜日

静御前墓(5-068、群馬県前橋市三河町、養行寺)

養行寺(ようぎょうじ)はJR前橋駅から北東へ400~500メートルのところにある法華宗の寺院です。

境内は静かで、きれいに整備されています

山門を入ってすぐの右手の築山のなかに静御前墓が立っています。

手前の石標には「静御前の塔」と刻まれています。

すらっとした端正な感じの五輪塔です。墓というよりは供養塔のようにも思われます。

特に解説板もなく、ひっそりと“佇んでいる姿”が印象的でした。


養行寺の山門

養行寺の本堂

静御前墓

静御前墓

2016年11月11日金曜日

佐野船橋(5-066、群馬県高崎市上佐野町)

船橋は、通路は木板の橋(橋梁は鉄骨)で、佐野窪町の上信電鉄の烏川鉄橋の下流に架かっています。

橋自体には昔の趣は残っていませんが、橋の上から望む妙義山の遠景や川の流れには心が癒されます。

謡曲「船橋」については、「佐野の船橋歌碑」の記事を参照してください。

所在地のMap

船橋の全景

船橋の木板

2016年11月9日水曜日

佐野源左衛門常世神社(5-063、群馬県高崎市上佐野町)

常世神社は佐野の船橋歌碑から歩いて数分、謡曲「鉢木」のシテとして登場する佐野源左衛門常世の宅跡と伝えられる場所に建っています。

とはいっても、現在では民家に囲まれています。
鎌倉時代、北条時頼の頃、この地に佐野源左衛門常世が住んでいた。 
時頼が旅僧に身をやつし行脚の途中、大雪に遭い、領地を横領され零落して、貧しいい暮らしの常世の家に一夜の宿を乞いた。その夜、燃やすものがなくて、鉢植えの梅、桜、松を燃やして温めもてなした。その時に常世が鎌倉に対する忠節心を旅僧に語った。 
その後、鎌倉から召集がかかり、常世は旅僧に語った通り、痩せ馬に乗り、破れた鎧をつけ、さびた長刀を持って、鎌倉に駆けつけた。 
時頼は常世の忠節を誉め、所領を返させるとともに、梅、桜、松にちなむ三箇の庄を与えた。~常世神社の説明板より
常世神社は非常にこじんまりしていますが、よく整備されていて、 地元から大事にされているように感じました。

所在地のMap

鳥居

本殿

説明板(鉢木の場面)

説明板

謡曲史跡保存会の駒札
本殿内部

歌碑










2016年11月7日月曜日

定家神社(5-064、群馬県高崎市下佐野町)

謡曲「鉢木」にも登場する定家の歌「駒とめて袖うち払ふかげもなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ」から、この佐野の地に定家に由来する神社が建てられたといわれています。
この定家の歌の本歌は、万葉集長忌寸奥麻呂の「苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに」です。 
三輪が崎とは、大和国三輪山の突き出た所(謡曲ではこの説をとっています)と紀伊国三輪崎町の二つの説があるそうで、いずれにしてもこの高崎の地とは直接は関連がないそうです。~参照:佐野謙太郎『謡曲大観』明治書院
鳥居、拝殿、本殿ともに朱できれいに塗られていて、特に本殿の彫刻は小ぶりながらも一見の価値があります。

境内右に万葉歌碑があります。
万葉集巻十四東歌   
「佐野山に打つや斧音(おのと)の遠かども 寝もとか子ろが面に見えつる」

鳥居

拝殿

扁額

本殿

本殿

社宝の説明板

周辺案内図

本殿
万葉歌碑

2016年11月5日土曜日

佐野の船橋歌碑(5-065、群馬県高崎市上佐野町)

上州電鉄の「さのの渡し」駅から北へ徒歩5分のところに、佐野の船橋歌碑が立っています。

石碑には、「かみつけの 佐野の船は しとりはなし 親はさくれど わはさかるがへ」と万葉集一首が刻まれている。碑の裏には「古道佐野渡」とあり、この歌碑がかつて船橋のあったと伝えられる場所に建てられたことが記されています、この碑文は文政10年(1827)のものだそうです。
佐野の船橋にまつわる伝説がある。烏川をはさんで二つの村があり、それぞれの村の長者の息子と娘が恋仲となり、夜に船橋を渡って人目を忍んで会っていた。しかし、それを知った親が、ある夜、橋板をはずし二人が会えないようにしたが、それを知らない若い二人が船橋を渡ろうとして、川に落ちて死んでしまったというものである。謡曲「船橋」はこの伝説を素材として作られたものである。~高崎市教育委員会の解説板より
歌碑の隣には、謡曲史跡保存会の「謡曲「船橋」と佐野の渡」の駒札が立っています。

烏川はたびたび流れを変えているそうなので、昔はこの歌碑の辺りを流れていたのかもしれません。

所在地のMap

佐野の渡し歌碑
佐野の渡し歌碑(裏面)

解説板

謡曲史跡保存会の駒札




2016年11月3日木曜日

頼政神社(5-067、群馬県高崎市宮元町)

JR高崎駅西口から西に向かって歩いて10~15分、烏川沿いにあります。

元禄8年(1695)に松平輝定が高崎藩主に封ぜられ、同11年(1698)に、その祖先である源三位頼政を祀って建立したそうです。
頼政公は、平安末期に、源家の正統に生まれた武将にして歌人である。白河法皇に擢んでられて兵庫頭となり、保元、平治の乱に功をたてた。後に剃髪して世に源三位入道と称す。 
後年、以仁王を奉じて平氏の追討を図り、事破れて治承4年(1180)宇治平等院で自刃した。家集『源三位頼政卿集』がある。又、宮中で鵺(ぬえ)を退治した話は有名である。~高崎観光協会由緒書より
ひっそりとした境内から、眼下に烏川、遠くには妙義山が見えます。

入口の石標

鳥居

本殿

扁額

狛犬

狛犬

由緒書


神社移転記念碑

2016年11月1日火曜日

鼠ヶ関址(5-107、山形県鶴岡市鼠ケ関)

鼠ヶ関(ねずがせき)は日本海に面した、昔の越後と出羽との国境(現在は新潟県との県境の山形県鶴岡市、旧念珠関村)にあります。
鼠ヶ関には関所址が2ヶ所ある。県境にある古代の関所址と、国道7号線の鼠ヶ関交差点の角(鼠ヶ関字関)にある慶長年間(1596~1614)から明治5年(1872)まで設置されていた近世の関所址である。
このブログで関心があるのは、古代の関所の方です。
鼠ヶ関は、勿来関、白河関と並んで奥羽三大関門の一つとされていた。この鼠ヶ関が文献に現れる最も古いものは、能因法師の歌枕の「ねずみの関」であり、10世紀ころには文人や旅人に親しまれていた。 
大正13年(1924)近世の関所を主たる対象に、内務省より「史蹟念珠関址」として指定をうけ、それ以後この名称が古代から近世に至る関所名とされてきた。 
昭和43年(1968)10月、山形、新潟両県境一帯の発掘調査により古代関所址の存在が確認された。遺跡は、棚列址、建物址、須恵器窯跡、土器製塩址が地下1メートルほどの所に埋蔵されており、関所の軍事施設と高度の生産施設をもつ村の形態を備えていた。 
この遺跡の年代は、平安中期から鎌倉初期の10世紀から12世紀にわたっている。これらを総合して「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」と名付けられた。 
このように、古代の関所址の貌が明らかになったことから、関にある近世の関所址を「近世念珠関址」とし、「古代鼠ヶ関址」と区別することにした。~鼠ヶ関解説板より
鼠ヶ関の海岸近くには、近年建てられた義経が上陸したことを示す石碑が立っている。

古代鼠ヶ関碑の所在地Map

古代鼠ヶ関址
山形県・新潟県境標

近世念珠関址

近世念珠関址

鼠ヶ関の解説板
義経上陸の地碑
「義経上陸の地碑」の説明板

源義経碑

厳島神社