射落畠は、総門の南側の細道を東に数10歩行き、県道八栗・庵治線に突きあたる手前右側にあります。佐藤嗣信が義経の身代わりとなって射落とされたと伝わる場所です。
この地は源義経の四天王の一人佐藤嗣信戦死の場所である。嗣信は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔にして藤原秀衡に従う。嗣信は若くして知略兵法に通じ、豪勇の名を知られる。源義経陸奥に来て秀衡の庇護をうけ、後頼朝挙兵を援けるために都に上るに際し、父の命により嗣信・忠信の兄弟もこれに従う。連戦して平家を追い屋島壇ノ浦にいたり、敵将平教経の挑戦をうけ、義経の身代わりとして戦死。時に年二十八歳。(佐藤嗣信顕彰碑より引用)
平家物語では、「教経は義経を射落とそうとさんざんに射るが、一人当千の義経の家来たちが矢面に立ちふさがり、まっ先に進んだ嗣信が左の肩を右の脇の方へつっと射抜かれて暫しも耐えられず、馬からさかさまにどっと落ちた」と記しています。
義経は、わが身に代った嗣信の死を深く悼んで、僧をよんで供養し、秘蔵の馬を僧に与えます。部下に対する厚い温情に、つき従った武士たちも心から感銘し、わが命を犠牲にしても何の悔いもないことを誓いあったとのことです。
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所在地のMap
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射落畠碑 |
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射落畠の解説板 |
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佐藤嗣信顕彰碑 |