2016年10月14日金曜日

中尊寺(5-132、岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関)

国宝の金色堂で有名な中尊寺(ちゅうそんじ)。

両脇に樹齢300年にもなる大きな杉がそびえる月見坂とよばれる参道を上っていくと、左手に弁慶堂が建っています。

堂内には、藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置されています。

さらに上っていくと本堂が左手にあり、その奥に金色堂覆堂や経堂が見えてきます。右手には芭蕉の句碑「五月雨の 降り残してや 光堂」が立っています。

中尊寺は、初代藤原清衡(きよひら)が長治2年(1105)から造営を始めましたが、金色堂を除き往時のすべての堂塔が鎌倉時代以降消滅してしまいました。

奥州藤原氏の栄華とその後の没落が、毛越寺や中尊寺のたどった歴史からもうかがえます。

ところで、謡曲「錦戸」に関する謡蹟は岩手県の平泉一帯になります。「錦戸」は、義経と弁慶は登場しませんが、判官物の謡曲として「安宅」「接待」の後を受けた締めくくりの曲で、泉三郎の武士としての忠節と、けなげな妻とをたたえた謡曲とされています。
藤原秀衡(ひでひら)の子の錦戸太郎は、頼朝の命に従って義経を討とう計り、弟泉三郎の同意を求めた。しかし泉は父の遺言を守って、これに応じなかったので、錦戸は泰衡(やすひら)などとともに、まず泉を討つことにした。 
泉の妻は夫に卑怯な振舞をさせないように、戦に先立って自害してしまった。やがて錦戸等の追手の軍勢が押し寄せてきたので、泉は力戦した後、腹をかき切ったが、討手の兵のために捕らえられた。~明治書院『謡曲大観』より
弁慶堂

弁慶堂の駒札

本堂

芭蕉句碑

金色堂覆堂

衣川古戦場跡の碑

衣川方面を望む





能舞台の鏡板

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