2019年1月22日火曜日

竹生島(4-134、滋賀県長浜市早崎町)

琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島には、長浜港、今津港、彦根港から観光船で渡れます。所要時間は30〜40分です。

周囲2kmの小さな島で、大半を自然林(タブノキ、杉や松など)で覆われ、わずかに南に開けた場所に都久夫須麻神社(竹生島神社)と宝厳寺(西国三十三番)があります。

港に着いて桟橋から島に上陸すると大きな石柱が立っています。売店前から急な階段を上っていくと大きくて立派な弁才天堂があります。本尊は日本三弁才天の一つである弁才天(大弁才天)と千手観音です。

階段の途中から右手に折れる狭い道に入って唐門、観音堂、船廊下を進むと、都久夫須麻神社本殿が現れます。海岸寄りには龍神拝所があり、琵琶湖に向かう鳥居にかわらけを投げることができます。神社名の「つくぶすま」は竹生島の古名といわれ、平安時代の延喜式に載る由緒があります。

中世には都久夫須麻神社(竹生島神社)と弁才天とは混同されていましたが、明治の廃仏毀釈により分離されたそうです。

竹生島は謡曲の舞台としても有名です。謡曲「竹生島」のあらすじです。
延喜帝(醍醐天皇)に仕える朝臣が、竹生島明神に参詣を志し、琵琶湖畔までやって来ます。ちょうど、老人が若い女をともなって釣舟を出しているので、便乗をたのみ、湖に浮かぶ竹生島を目指します。竹生島へ着き、老人は朝臣を神前に案内します。連れの女も一緒に来るので、朝臣は老人に、竹生島は女人禁制ではないのか、不審がると、老人と女は、弁才天は女性の神なので、女人を分け隔てしないと、この島の明神の由来を語ります。やがて二人は実は人間ではないといって若い女は社殿に入り、老人は波間に姿を消しました。(中入り)
朝臣が社人に宝物を見せてもらっていると、社殿が鳴動し、光輝き、音楽も聞こえたと思うと弁才天が現れ、舞をまいます。続いて湖上が波立つと見るや、龍神が水中から出現して、朝臣に金銀珠玉を捧げ、激しい舞をを見せます。そして、弁才天と龍神とは、仏が衆生を救うための二つの形だといい、国土鎮護を約束し、弁才天再び社殿に入り、龍神は湖水へ飛んで入ります。(権藤芳一『能楽手帖』駸々堂より引用)
また『平家物語』巻 第七「竹生島詣」では、平家追討のため都へ上ろうとする木曽義仲を迎え撃つため平家は維盛、通盛を大将軍に、忠度、経正、清房、知度を副将軍に十万余騎で迎え撃つことになり、敦賀や近江から北上しました。このうち、経正はその途上で竹生島に渡って神前で僧が差し出した琵琶で上玄、石上の稀曲を奏でると龍神は感に堪えかねて姿を現したと記されています。

桟橋前の広場

石柱
宝厳寺の石柱と鳥居

弁才天への階段

本堂(弁才天堂)

都久夫須麻神社の本殿

拝所からの鳥居

観光船

波止場

竹生島

竹生島遠景




2019年1月20日日曜日

瀬田の唐橋(4-115、滋賀県大津市瀬田)

日本三名橋の一つで近江八景「瀬田の夕照」で名高い名橋で、古くは、瀬田橋・瀬田の長橋とも呼ばれたそうです。
「唐橋を制するものは天下を制する」と言われ、古来より京都ののど元を握る交通・軍事の要衝として重視され、瀬田橋が戦の歴史舞台になって千八百年になりますが、特に有名なものは、古くは、大津京が幻の都となった大友皇子と大海人皇子の「壬申の乱」をはじめ、義仲と平家方および義仲と範頼・義経の「治承・寿永の乱」、「承久の乱」、「建武の乱」など幾多の戦乱の舞台にもなりました。(びわ湖大津観光協会HPより引用)
瀬田の唐橋は 、西詰の国道422号線と当方の国道1号せんを結ぶ県道16号線の上にあり、自動車の車の往来も頻繁です。往時を偲ぶのはなかなか難しいようでした。

瀬田の唐橋

瀬田の唐橋の解説板


2019年1月18日金曜日

石山寺(4-116、滋賀県大津市石山寺)

石山寺は瀬田川の西岸に位置し、聖武天皇の勅願により天平勝宝元年(749)良辯僧正によって開基された寺院です。

石山寺は紫式部ゆかりの寺でも知られ、本堂内の「源氏の間」は紫式部が源氏物語を書いたところと伝えられています。

境内の奇岩はいわゆる石山の名の出た石で珪灰石からなり、天然記念物に指定されています。

東大門
東大門の解説板

珪灰石(天然記念物)

毘沙門堂

毘沙門堂の解説板

本堂遠景

本堂の解説板

紫式部供養塔

紫式部像


2019年1月16日水曜日

今井兼平墓(4-117、滋賀県大津市晴嵐)

今井兼平の墓はJR東海道線石山駅または京阪石山坂線京阪石山駅から徒歩3分の人家が疎らな細い盛越川のほとりに立っています。石柱で囲われた立派な墓です。
今井兼平(1152?-84)は木曽義仲と乳兄弟にあたる平安時代末期の武将で、木曽の四天王とも呼ばれていた人物です。寿永三年(1184)、粟津で範頼、義経軍に包囲されて義仲とともに戦って悲壮な最期を遂げました。義仲が討たれたことを知ると、自ら刀を口に逆立てて馬から飛び降りたという話は、謡曲「兼平」の素材となって語られています。(公社びわこビジターズビューローHPから引用)
江戸時代になって、兼平を尊敬した膳所藩主本多俊次が墓を建立したと伝えられています。

入口の石板

兼平墓

兼平墓

解説板

解説板

謡曲史跡保存会の駒札




2019年1月14日月曜日

義仲寺(4-118、 滋賀県大津市馬場)

膳所駅(JR東海道線または京阪石坂線)から商店街を抜けて徒歩10分のところに義仲寺(ぎちゅうじ)があります。
義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われて粟津の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(1154-84)をここに葬ったことに由来しています。近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建立したといわれています。(公社びわこビジターズビューローHPより引用)
旧東海道に面した山門の向かって右手に巴地蔵堂が建っています。石彫地蔵尊を祀ってあり、巴御前を追福するものだそうです。山門をくぐって細い参道の右手の朝日堂には本尊のの聖観世音菩薩、義仲、義高父子の木像を納めた厨子があり、 義仲、今井兼平、芭蕉などの位牌も安置されています。

左手前奥には義仲の側女山吹塚があります。もとはJR大津駅前にありましたが、駅の拡張工事にともない、昭和48年(1973)12月に寺内に移されたそうです。

参道の突き当りに宝篋印塔の義仲墓(木曽塚)が、手前左手に巴塚があります。さらに奥には芭蕉墓があります。芭蕉は元禄七年(1694)に大坂で死去後、遺言に従って義仲寺に埋葬されました。

小さな寺院ですが、平家物語や源平合戦に興味ある方にとっては非常に魅力的な参拝先だと思います。

山門

標柱

教育委員会の解説板

巴地蔵堂

参道

山吹塚

山吹塚の解説板

朝日堂

義仲塚

巴塚

巴塚の解説板

歌碑

木曽神社鳥居

木曽八幡社

縁起



2019年1月12日土曜日

三井寺(4-121、滋賀県大津市園城寺町)

天台寺門宗の総本山である三井寺は 正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といいます。

現在、金堂西側にある「閼伽井屋」(あかいや)から湧き出ている清水が天智、天武、持統天皇の産湯に用いられたため御井と呼ばれ、三井寺の名になりました。

金堂前の鐘楼堂の鐘が「三井の晩鐘」です。謡曲『三井寺』の「親子の為の契りには 鐘ゆゑに逢ふ夜なり 嬉しき鐘の声かな」という鐘です。

金堂裏手の霊鐘堂に安置される古鐘が「弁慶の引き摺り鐘」です。『三井寺』の「秀郷とやらんの竜宮より取りて帰りし鐘」です。
当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作とされています。 むかし、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。(三井寺HPより引用)
三井寺は琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有していて、堂宇や名宝など見どころもたくさんあり、琵琶湖を見下ろすスケールの大きな展望も見飽きることもありません。半日程度は時間をかけてゆっくり参拝したいところです。

所在地のMap

仁王門

仁王門の解説板

境内案内図

釈迦堂

釈迦堂の解説板

金堂

金堂の解説板

金堂の解説板

三井の晩鐘

三井の晩鐘

「三井の晩鐘」の解説板

「三井の晩鐘」の解説板

「三井の晩鐘」の解説板

「三井の晩鐘」の解説板

閼伽井屋

閼伽井屋(左甚五郎の龍)

弁慶の引き摺り鐘

弁慶の引き摺り鐘

「弁慶の引き摺り鐘」の解説板

弁慶の引き摺り鐘

弁慶の汁鍋(弁慶が所持していた大鍋で、三井寺の
大鐘を奪い取った時に残していったものと伝えられる)

観月舞台

謡曲史跡保存会の駒札

琵琶湖の展望

朝日堂

鐘楼

鐘楼の鐘