2017年2月28日火曜日

平判官康頼供養塔(1-115、京都府京都市北区紫野大徳寺町、大徳寺)

平判官康頼(たいらのほうがんやすより)供養塔は北区の大徳寺の境内にあります。

鹿ヶ谷の陰謀は安元3年(1177)6月に京都で起こった平家打倒の陰謀事件で、京都の東山鹿ヶ谷の静賢法印(信西の子)の山荘で謀議が行われました。

平康頼は、この陰謀に加担したことにより、平清盛によって鬼界ヶ島(薩摩国)へ俊寛僧都、丹波少将成常とともに配流されました。

治承二年(1178)に、俊寛を残して康頼と成常の2人だけが赦免されて京都に戻ることができました。この時の俊寛の悲痛な様子は、謡曲「俊寛」に描かれています。

康頼供養塔は高さ1.3メートルで、立派なものです。

大徳寺の境内は多くの人で賑わっていましたが、康頼供養塔に関心を持って眺める参拝客はほとんど見られませんでした。

平康頼供養塔

平康頼供養塔


2017年2月26日日曜日

下鴨神社(1-084、京都府京都市左京区下鴨泉川町)

京阪電車の出町柳駅から徒歩約10分、鴨川と高野川の合流地点にあります。

正式名は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)といい、祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)です。

下鴨神社を訪ねて印象に残るのは糺の森です。糺の森は下鴨神社本殿から南へ河合神社に至る境内で、およそ12ヘクタ-ル(東京ドームの約3倍)の面積がある原生林だそうです。

本殿へまっすぐ伸びる参道を挟んで左手に瀬見の小川、右手に泉川が流れています。昼間でも樹林で日差しが遮られ、静寂に包まれています。その参道をゆっくり歩いていると、旅の疲れも忘れるような清々しさを感じます。
「瀬見の小川」は、平安時代から鎌倉時代の賀茂御祖神社社頭の景観を描いた「鴨社古圖」によると、馬場(糺の森の参道の西側)の西側を流れています(現在の鴨川を指す)。 
 『風土記』山城国逸文には、賀茂建角身命が「瀬見の小川」と名付けたとの縁起が伝えられています。
『新古今和歌集』の鴨長明の歌「石川や せみの小河の 清ければ 月もながれを 尋ねてぞすむ」で広く知られるようになりました。~賀茂御祖神社の解説板より
下鴨神社は、謡曲「加茂」のほか、「班女」の後場の舞台としても有名です。
美濃国野上宿の遊女に花子という者あり、或年の春、都から当国へ下向の途次ここに立寄った吉田少将と深く契り、爾来恋慕の餘りただ形見の扇のみ見入りて、他の客の前に出なかったので、宿の主たいへん腹立てて、花子をこの家から遂出した。 
同じ年の秋、吉田少将はまた都に帰えらんとて、この宿に立寄り花子を尋ねたが、既にその行方も知られなかったので、已むなく都へ立帰り、やがて糺の社に詣でた。 
恋慕のあまり心乱れた花子は、今日しも同じ糺の社に詣でて、恋しき人に再び逢はせ給へと祈っていたのを、少将の従者狂女と見て面白う狂へと言う。花子、のち班女が故事(漢成帝の寵姫班婕妤)を引き、われもまた夏果つる扇のその如く、恋しき人に捨てられたれば、せめてもの形見の扇手に触れて、風の便りを待つばかりであると、恋慕の情切なるを想う、少将怪しんでその扇を見れば、まさしく自分と取交はしたる形見の品であったので、奇しき再会を喜んで永き妹背の路に入りぬ。〜中村京三『謡曲と京都』班女より
正面鳥居

糺の森

糺の森

糺の森解説板

中門

由緒書

境内案内図





2017年2月17日金曜日

寂光院(1-092、京都府京都市左京区大原草生町)

寂光院の受付からまっすぐに石段を上って山門をくぐると正面に本堂、その手前西側(左手)には汀の池、千年の姫小松、汀の桜などがあります。

寂光院は天台宗の尼寺で、推古二年(594)に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために創建されたそうです。
建礼門院徳子(平清盛の娘・高倉天皇の中宮で安徳天皇の母)は、文治元年(1185)九月に入寺。
源平の戦いに敗れ、壇ノ浦で滅亡した平家一門とわが子安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの地で過ごされ閑居御所とされた。~寂光院パンフレットより
壇ノ浦で平家が滅びて後、文治二年(1186)四月、後白河法皇が洛北寂光院に隠棲された建礼門院を訪ねられたことは、『平家物語』灌頂巻にくわしく、また謡曲「大原御幸」にも謡われている。当時、法王は鞍馬街道から静原を経て江文峠を越えて大原村に入り、寂光院を尋ねられている。~謡曲史跡保存会駒札より
残念ながら平成十二年(2000)の放火で本堂が焼け、本尊の六万体地蔵尊も損傷しました。
後白河法皇が建礼門院と対面する場面のなかに登場する「中嶋の末のかかれる藤波の うら紫のさける色」と記された松が「千年の姫小松」ですが、この放火の影響で傷みが激しくなり、平成十六年には枯死しました。現在は伐採されて幹の部分のみが残されています。

本堂の西側の林のなかに建礼門院御庵室跡および使用したという清水があります。ひっそりとしていて、閑居らしい雰囲気が漂っています。

寂光院入口

山門

本堂

四方正面の池

汀の池

千年の姫小松
千年の姫小松由来

汀の池

御庵室跡

建礼門院使用の井戸遺構

御庵室跡の説明板

説明を追加



2017年2月15日水曜日

建礼門院大原西陵(1-000、京都市左京区大原草生町)

大原のバス停から平坦な道をたどっていくと寂光院があります。

その手前(右隣)の細くまっすぐに伸びる石段を上っていくと、左手に建礼門院の御陵が見えます。

宮内庁の管轄で、その先の参道は柵にさえぎられています。

寂光院を訪れる人は多いですが、この御陵を訪れる人は疎らです。

ひっそりとしているだけに、建礼門院の数奇な運命を偲ぶこともできるのでしょうか。

御陵への入口

建礼門院御陵

建礼門院御陵

2017年2月13日月曜日

三千院(1-093、京都府京都市左京区大原来迎院町)

京都バスの大原バス停で下車して寂光院とは反対の緩やかな坂道を上っていきます。

漬物などの土産物屋が立ち並ぶ細い道を10分ほど登ると石段の上に御殿門が見えてきます。

苔のびっしりと生えた庭の中に国宝の阿弥陀三尊像を納めた往生極楽殿があります。

寺伝では寛和二年(986)に『往生要集』の著者で天台浄土宗の大成者である恵心僧都源信が父母の菩提のため姉の安養尼と共に建立したと伝えられています。
大原の地は千有余年前より魚山(ぎょざん)と呼ばれ、仏教音楽(声明)の発祥の地であり、念仏聖による浄土信仰の聖地として今日に至ります。
創建は伝教大師最澄上人(767~822)が比叡山延暦寺建立の際、草庵を結ばれたのに始まります。
別名、梶井門跡・梨本門跡とも呼ばる天台宗五箇室門跡の一つで、当院は皇子、皇族が住職を務めた宮門跡です。現在の名称は、明治四年法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇宸筆の勅額により、三千院と公称されるようになりました。~三千院パンフレットより
訪れたのは11月中旬で紅葉の季節。苔の緑と対照的な紅葉の鮮やかさが印象的でした。


御殿門

解説板

往生極楽院

庭園解説板

わらべ地蔵

有清園庭園

往生極楽院遠景