2016年8月30日火曜日

犬追物の馬場(5-080、栃木県大田原市蜂巣)

「犬追物の馬場」は大田原市黒羽町、国道294号線を北上して暮らしの館交差点を左折してしばらく行くと右手にあります。
近衛帝の久寿年中(きゅうじゅ、1154~55年)、勅を奉じて三浦介義明・千葉介常胤上総介広常が、玉藻前(たまものまえ)が狐と化して逃げて那須野に隠れ棲んでいるのを退治するために、犬を狐にみたたて追い射る武技を行った跡という。~解説板より
謡曲「殺生石」(せっしょうせき)に次の記述があります。
その後勅使立って 三浦の介 上総の介 両人に綸旨(りんし)をなされつつ 那須野の化生(けしょう)の者を 退治せよとの勅を受けて 野干(やかん)は犬に似たれば 犬にて稽古あるべしとて 百日犬をぞ射たりける これ犬追物の始めとかや ~『謡曲集』新潮社より
芭蕉も元禄2年(1689)4月にこの地を訪れたとのことです。

同地は田んぼや林などが広がる長閑な雰囲気であり、逃げ回る犬を馬上から矢で射る当時の猛々しい状況は想像するしかありません。

所在地のMap

「犬追物の馬場」の説明板

「犬追物の馬場」一帯の風景







2016年8月28日日曜日

遊行柳(5-085、 栃木県那須郡那須町芦野)

遊行柳(ゆぎょうやなぎ)は那須町芦野、国道294号線(旧陸羽街道)の芦野駐在所前交差点の少し進んだ左手の田んぼの中、那須湯泉神社(上の宮)、参道脇にあります。
謡曲「遊行柳」は、その昔諸国巡礼の遊行上人(ゆぎょうしょうにん)が、奥州白河の関の辺りで老翁に呼びとめられ、「道のべに清水流る柳かげ しばしとてこそ立ち止まりけり」と西行法師が詠じた名木の柳の木の前に案内され、そのあまりに古びた様子に、常任が十念を授けると老翁は消え去った。 
夜更け頃、更に念仏を唱えて回向する上人の前に烏帽子狩衣の老翁が現れて遊行上人の十念を得て非情の草木ながら極楽往生が出来たと喜び、幽玄の舞を通して念仏の利益を見せる名曲である。~謡曲史跡保存会の駒札より
この遊行柳はいろいろな紀行文にも取り上げられ、芭蕉や蕪村も訪れています。

「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」芭蕉

「柳散清水涸石処々」(柳散り清水涸れ石ところどころ)蕪村

柳は何代も植え継がれていて、参道の左右に1本ずつ植えられていますが、玉垣に囲まれた方が「遊行柳」だそうです。もう1本は「遊行柳」が枯れてしまった時の備えとも。

車の場合は、近くの遊行庵食堂(農産品の直売所も隣接)の駐車場が利用でき、遊行柳までは徒歩2~3分です。

所在地のMap

参道入り口(遊行柳遠景)

遊行柳全景

遊行柳の石碑

遊行柳

遊行柳

謡曲史跡保存会の駒札

遊行柳の駒札



西行法師の歌碑

遊行柳の由来碑

温泉神社上社

温泉神社上社
上の宮の「いちょう」
上の宮の「いちょう」の説明板

遊行庵にある遊行柳の解説板

2016年8月26日金曜日

佐藤嗣信・忠信供養塔(5-084、栃木県大田原市寒井)

県道34号線を北東に走ると、那珂川に架かる橋の手前左側の高台に佐藤嗣信・忠信(つぐのぶ・ただのぶ)の供養塔があります。

車で探してもなかなか見つけにくく、通り過ぎてしまう可能性があります。

佐藤嗣信・忠信の兄弟は義経の忠臣で、嗣信は屋島の戦いで平教経の矢を受けて、忠信は吉野から義経を落ちさせた後に京都で討死しました。

特に佐藤忠信は、歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の「義経千本桜」に静御前とともに登場するので有名だと思います。

この場所について、故青木実氏は著書『謡蹟めぐり』で「那須記」の記述を紹介しています。

角折坂や寒井を佐武居に呼び変えた由来が興味深いところです。
那須資隆(与一宗隆の父)、嗣信忠信兄弟の父又秀衡(佐藤荘司)とはへだてなき中故、兄弟討死の由を聞き及びて佐藤荘司を慰めんため(石を)切って牛にひかせけるに、牛死し車倒れて角打折れ、この坂を角折坂と申すなり。 
さて又この里は川風すさましく吹いて、民も住み急ぎける程に、名も寒井と申し候ところに、佐藤兄弟が石塔をたてし以来資隆あらためて佐武居と申すなり。その故は佐藤武士居所というなり。
訪問した時、木の枝葉が供養塔の上に蔽い被さっている惨状に、佐藤兄弟が気の毒に思えてなりませんでした。

⇒ 所在地のMap

供養塔入口(左右の石柱に嗣信・忠信の銘が刻まれている)




嗣信(手前)と忠信の供養塔

奥の忠信の供養塔

県道から解説板を見上げる





2016年8月24日水曜日

金丸八幡宮(5-079、栃木県大田原市南金丸)

金丸八幡宮は、現在では那須神社と呼ばれ、那須与一が源平屋島の戦いで扇の的を弓矢で射落とす際、「南無八幡大菩薩・・・」と、心に念じた神社として有名です。
仁徳天皇(313~399年)時代の創立で、さらに延暦年中(782~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡宮にした。 
その後、源頼義その子義家父子前後2回にわたる奥羽征討の途この地に八幡宮の祠があり、神助を祈願して戦勝を得た。
また近衛天皇の御代三浦上総介義澄が那須野の妖狐を退治した時もこの社に祈願し容易く射止めることができたのでその弓を奉納した。~御由緒書より
社宝には、那須与一が奉納したといわれる太刀や寛永19年(1642年)の建立と推測される楼門などがあります。

杉並木の参道を進むと、太鼓橋の手前に極彩色の立派で、風格のある楼門が建っています。

この楼門は、本殿とともに平成26年に国重要文化財に指定されています。

秋には例大祭が行われ、流鏑馬も披露されるそうです。

参道から楼門を望む

楼門

拝殿(その奥が本殿)

説明板

御由緒

建造物の解説板




2016年8月22日月曜日

那須与一宗隆墓(5-078、栃木県大田原市福原、玄性寺)

栃木県の那須といえば、弓の名手である那須与一(なすのよいち)の名前を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

那須与一は、源平屋島の合戦で、平家方の船に立てられた竿の先につけた扇を海岸近くの馬上から矢を放ち、見事に射切りました。

この間の距離は80メートル。的となる扇は船上にあるために波で揺れ、風もかなり激しかったようです。

平家物語は、次のように描写しています。
 与一は目をとじて、「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、わが国の神々、日光権現(にっこうごんげん)、宇都宮の明神、那須の湯泉大明神(ゆせんだいみょうじん)、どうかあの扇のまん中を射させてください。もしこれを射そこなうことがあれば、弓を切り折って自害し、人にふたたび顔を合わせぬ覚悟です。もう一度本国へ帰らせてやろうとお思いでしたら、この矢をはずさせなさらないでください」と心の中で祈念して、目を見ひらくと、風もすこし弱まって、扇も射やすそうになった。
与一は鏑矢(かぶらや)をとり弓につがえ引きしぼってひょうと射放った。小柄ではあるが、十二束三伏の矢を強い弓で放ったので、鏑矢は浦一帯に響くほど長く鳴って、あやまたずに扇の要ぎわから一寸ばかりのところを、ひいふつと射切った。 
鏑矢は海に落ち、扇は空に舞いあがって、しばらく空中にひらめいていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散ったのであった。 
夕日の輝くなかを、皆紅色の地に金色の日の丸を描いた扇が白波の上に漂い、浮きたり沈んだりして揺られていくと、沖では平家が船ばたをたたいて感嘆した。陸では源氏が箙をたたいて歓声をあげた。 ~ 杉本圭三郎全訳注『平家物語』講談社学術文庫より
(注)箙 ・・・ 矢を入れて背負う武具
 与一の墓は、一族の墓とともに並んで、玄性寺(げんしょうじ)の高台にあります。

墓銘碑

墓銘碑

那須与一宗隆墓

右から父・資景、同室、与一宗隆の墓(供養塔)

2016年8月20日土曜日

西行桜(5-077、栃木県大田原市佐良土、法輪寺)

東に那珂川、南に箒川が流れる大田原市佐良土地区の法輪寺の境内に、シダレザクラである西行桜があります。

かなり太い幹が根元から分かれています。
根元周囲4.4メートル、樹高12.0メートル、枝張東西13.4メートル、南北11.3メートル。 
保延年間(1130年代)西行法師が奥州行脚の折法輪寺に詣でて、境内にあったサクラを見て、「盛りには などか若葉は今とても 心ひかるる糸桜かな」と詠んだと伝えられていることから、「西行桜」の名があります。 
当時から800年ほどの歳月が流れますが、現在のサクラはひこばえのもの。~大田原市観光協会HPより
2代目とはいえ老木。数本の丸太で支えられています。

静かな境内で西行桜とじっと対面していると、会話ができるような気がしてきます。

次回は、春に満開の西行桜を見に行きたいという思いを強くしました。

法輪寺の解説板
勅使門への参道
勅使門と西行桜の解説板
勅使門 
西行桜(鐘楼の左手前)
西行桜の石碑

2016年8月12日金曜日

落柿舎(1-106、京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町)

謡曲とは関係ありませんが、嵯峨野といえば「落柿舎」(らくししゃ)を想像する人も多いのではないでしょうか。
落柿舎は、元禄の俳人で芭蕉(ばしょう)の門人である向井去来(きょらい)の遺跡である。
去来が落柿舎を営んだのは、 貞享4年(1687)の以前で、芭蕉が初めて訪れたのは元禄2年(1689)、 あわせて三度来庵す。
元禄4年には4月18日から5月4日まで滞留し、その間に『嵯峨日記』を誌した。~落柿舎HPより
落柿舎の門

落柿舎

落柿舎

落柿舎制札

落柿舎の庭

2016年8月10日水曜日

西行井戸(1-000、京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町)

二尊院の近く(徒歩数分)、落柿舎の北側に「西行井戸」があります。

西行が、二尊院の近くに庵を構えていた時に使っていたといわれるものです。

この井戸は今も枯れずに、水を汲み上げて使われているそうです。

「牡鹿なく  小倉の山の  すそ近み  ただ独りすむ  わが心かな」の歌碑が井戸の横に立っています。

所在地のMap

西行井戸(左上が歌碑)

2016年8月8日月曜日

二尊院(1-000、京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町)

二尊院は小倉山の東麓にあって、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため、二尊院と呼ばれますが、正しくは「小倉山二尊教院華台寺」(かだいじ)というそうです。

嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が承和年間(834~847)に開山したとのことです。

総門を入ってすぐ右側に、「西行法師庵の跡」の石碑が立っています。

「我がものと 秋の梢を思うかな 小倉の里に 家居せしより 」という西行の歌が駒札に記されています。

紅葉の馬場を通って唐門(勅使門)をくぐると、本堂がある広い境内にでます。

その横の階段を上って左手の細道を抜けると小さな広場に出ます。

ここが「藤原定家時雨亭跡」(しぐれていあと)で、定家が百人一首を選定した場所といわれています。

本堂までは参拝客で混雑しますが、時雨亭跡まで登ってくる人はほとんどおらず、静寂さを満喫しながら、東に広がる嵯峨野も眺望できます

なお、時雨亭跡の確たる場所は不明で、「常寂光院内」「厭離庵」「般舟院」など諸説があります。

二尊院総門

西行法師庵の跡

唐門(勅使門)

二尊院本堂

時雨亭跡

時雨亭跡から嵯峨野を望む

2016年8月6日土曜日

新田義貞の首塚(1-000、京都府京都市右京区嵯峨亀山町、滝口寺)

嵯峨野の滝口寺の入り口を入ったところに、新田義貞の首塚があります。

首塚への通路の両脇には家臣の名前を刻んだ石灯篭が並んでいて、あたかも家臣を従えた義貞の姿のようです。

『太平記』第二十巻 義貞首懸獄門事付勾当内侍事 で新田義貞が北陸で足利尊氏方に討たれ、首が京に運ばれた後のことが語られています。
義貞朝臣の首、京都に着きにければ、これ朝敵の最、武敵の雄たりとて、大路を渡して、獄門に懸けらる。男女岐(ちまた)に立ちて、これを見るに堪えず、泣き悲しむ声呦々(ゆうゆう、むせび泣くさま)たり。 中にも、.かの北の台(きたのだい)勾当内侍(こうとうのないし)の局(つぼね)の悲しみを、伝え聞くこそあわれなれ。
道に、人あまた立ち逢ひて、「あな、あわれや」なんど云ひけるを、(勾当内侍が)何事にやと聞き給えば、逢はで帰りし左中将(義貞)の首を獄門の木にぞ懸けたりける。眼塞がり、色変ぜり。内侍の局、これを二目とも見給わず。あたりなる築地の陰に泣き倒れ給う。 
内侍の局、その夜やがて御髪下され(尼になり)、紅顔を墨染の袖にやつし給う(年若くつややかな顔を尼僧の衣にみすぼらしく変えた)。嵯峨の奥、往生院(滝口寺や祇王寺の前身)の辺りなる、柴の扉の明け暮れは、行なひすましてぞおはしける(仏の道に専念していらっしゃった)。~『太平記』(三)岩波文庫より
この首塚の近くには、勾当内侍の供養塔もあります。

義貞の首塚

両脇に並ぶ灯篭

義貞の首塚

首塚の碑