2016年6月15日水曜日

静御前墓(5-006、埼玉県久喜市栗橋中央)

静御前の墓が栗橋駅の近くにあります。

静御前については、文治2年(1186)3月に北条時政によって京都から鎌倉へ召し出されて、義経の消息についての取り調べ、鶴岡八幡宮における頼朝・政子の前での舞、義経の子(男児)の出産(直後に殺害)、などの出来事が鎌倉の地でありました。

同年9月に京都へ戻った後の足跡は定かではなく、全国各地に静御前に関する史跡や墓が点在しています。
義経は兄頼朝の不興を蒙り、奥州平泉の藤原氏を頼って京都から落ちのびました。静は義経を慕って京都を発ち、平泉に向かいました。 
途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都へ戻ろうとしました。 
しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気になり、文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。~久喜市教育委員会・静御前遺跡保存会作成解説板より
寺社の境内にある史跡ではないにもかかわらず、きちんと整備されて日々の手入れも十分になされていることが分かります。

静御前墓には小ぎれいな屋根がかけられています。

また、静御膳墓の左脇には義経招魂碑と静女御曹司供養塔もあり、3者が仲良く寄り添っているようです。

解説板も新しく、読みやすいものです。

なお、記念塔の脇には静御前の大きな絵が立てられ、さらに顔ハメ看板もあります。
これらは、せっかくの史跡を陳腐にしているようで、少々残念な印象を持ちました。

所在地のMap

墓所の入口
静御前墓
記念塔
静女塚碑
義経招魂碑(左)と静女御曹司供養塔(右)

義経招魂碑

静女御曹司供養塔

解説板

2016年6月14日火曜日

西行見返りの松(5-005、埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野、永福寺)

西行見返りの松は、杉戸の永福寺の山門左前にあります。

現在の松は三代目だそうで、樹高は4~5mといったところでしょうか。
歌人としても知られる西行法師は、文治年間(1185~1190)、奈良東大寺再興歓進のため奥州平泉の藤原氏を訪れる旅に出ましたが、途中、病に倒れ、杉戸下高野にあった小庵(後の東大寺)で手厚い看護を受けます。
無事に回復し、再び平泉への旅に戻った西行法師は、小庵を離れる際、庭にあったみごとな技ぶりの松を何度も振り返りながら出発したといわれ、いつしかこの松は「見返りの松」と呼ばれるようになりました。~杉戸町HPより
西行法師見返りの松

松の足もとにある西行法師見返りの松碑

説明板

2016年6月13日月曜日

都鳥歌碑(5-004、埼玉県春日部市粕壁、春日部八幡神社)

春日部八幡神社は東武野田線八木崎駅、春日部高校の東側にあります。

鳥居が立派で、参道はまっすぐに長く伸びて、まわりを杉の古木に囲まれています。境内はきれいに整備されていて、気持ちよく参拝できます。

隔年10月に、境内で薪能が奉納されているそうです。
今から約800年前ぐらい前、源頼朝が鎌倉に幕府を置いていた頃、粕壁の浜川戸に春日部重実という人がおり、大袋・大沢・桜井・新方・増林あたりを領地としていました。この重実の子に実景、そしてこの実景の孫に重行(春日部治部少輔時賢)という人がいました。彼は長い間相州(現在の神奈川県)にある鶴岡八幡宮を敬神していて、しばしばの合戦にもその霊護を蒙ったので、遥拝(はるかに礼拝すること)のため鎌倉時代元弘年間(1330年代)に鶴岡八幡宮を模してこの八幡神社を造営したと伝えられており、森の一部は彼の館跡と言われています。
又、参道中央部には鶴岡八幡宮の御神木の一枝が飛び来たり一夜のうちに繁茂したと伝えられる大銀杏が空高くそびえています。 
昔は、新方四十余郷の総鎮守で代々領主の守護神社であり、その後しばしばの栄枯盛衰もありましたが、現在は春日部の総鎮守となっています。~同神社HP「由緒略記」より
参道入口の左側に「都鳥歌碑」があります。歌碑は2m程の高さです。
「名にしおはばいざ言問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」
この歌は、在原業平(平安初期の歌人)が奥州に旅をしたとき、武蔵国と下総国との境にある隅田川の渡しで詠んだものです。往古当神社の辺りが両国の境になっており、奥州への通路にもなっていました。この石碑は、その故事を後世に伝えんと、江戸末期嘉永6年(1853)粕壁宿の名主関根孝熙が千種正三位源有功(ちくさありこと)に依頼し由緒をあらわしたものです。~歌碑説明板より
千種有功は江戸時代の公卿、歌人で、碑文には「伊勢物語」の上記「名にしおはば」ではなく、有功の「とはれつるあとだにとめよ都鳥 むかしはとほきわたりなりとも」が由緒にともに刻んであります。

参道前
一の鳥居
二の鳥居
由緒の説明板

本殿
大銀杏
奥の院
奥の院記念碑


都鳥歌碑
都鳥歌碑

都鳥歌碑

2016年6月12日日曜日

梅若塚(5-002、埼玉県春日部市新方袋、満蔵寺)

満蔵寺の門の右側に梅若塚があります。

◇「梅若伝説」や謡曲「隅田川」の概略については、下記の梅若塚解説板の画像をクリック・拡大して参考にしてください。
青木実著『謡蹟めぐり』によると、「小祠の後ろに桜の老樹の切り株がある。この桜は梅若丸の母がこの地に訪ね来り、開基の僧祐閑に頼んで塚を築いた時に植えた桜という。後に応永元年(1394)8月台風に吹き折られたが、翌年若枝を.生じ回生した、しかし昭和に至って38年(1963)の台風に吹き倒されてしまったという。この切り株はご神木のような感じで・・・」とあります。
その切り株も今はなく、小山が残っているばかりりですが、宝生流などの献碑もあります。

梅若塚のまわりには田んぼもあって長閑な雰囲気が残っており、謡蹟めぐりの楽しみを十分に堪能できるのではないでしょうか。

梅若塚遠景

梅若塚

梅若塚

梅若塚碑
梅若塚解説板(埼玉県・春日部市作成)
宝生九郎の記念碑
祠の後ろにある昔桜が植わっていた場所
由来を記した石碑

2016年6月11日土曜日

古隅田川と業平橋(5-001、埼玉県春日部市南中曽根・道順川戸)

古隅田川は、さいたま市岩槻区南平野に源を発し、春日部市梅田で大落古利根川に合流する延長4.8km、流域面積14.0k平方メートルの一級河川です。

春日部は武蔵国ですが、その東は下総で、利根川の分岐点の関宿まで下総国が入り込んでいます。

ということで、『隅田川』の詞章である「武蔵の国と下総の中にある隅田川にも着きにけり」が春日部にも当てはまってきます。

旧岩槻街道の古隅田川に架かる小さな橋が「業平橋」で、豊春小学校の角にあります。

解説板や標柱もなく、橋銘板に「業平橋」「古隅田川」「なりひらばし」「ふるすみだがわ」の名がそれぞれ記されているのみです。

「業平橋」はコンクリート製で、在原業平の時代の趣きはもちろんありません。

古隅田川も周りに住宅が建っているところが多く、夏場は画像のように葦が生い茂っています。

もう少し、地元の自治体や観光協会が保全や整備に努めてもよいように思います。

所在地のMap

業平橋

業平橋

業平橋

古隅田川

業平橋

古隅田川



2016年6月5日日曜日

山吹姫之墓(5-000、埼玉県比企郡嵐山町鎌形、班渓寺)

班渓寺は、木曽義仲の室・山吹姫の菩提寺であるとか、山吹姫が頼朝に殺害された息子の義高の供養のために開いた寺であるともいわれています。
山吹姫は木曽育ちの娘で、義仲とともに幾度かの合戦に従軍しました。 
山吹姫は建久元年(1190)11月22日にこの地で没しています。~班渓寺解説板より
境内には山吹姫の墓と伝えられる供養塔があります。

班渓寺の全景

班渓寺の説明板

木曽義仲公顕彰碑

山吹姫之墓の石柱

山吹姫之墓

2016年6月4日土曜日

伝木曽殿館跡(5-000、埼玉県比企郡嵐山町鎌形)

鎌形の斑渓寺の北東、道路沿いに「伝木曽殿館跡」の大きな立札があります。
昔からこの地は木曽殿(きそどん)と呼ばれ、駒王丸(木曽義仲)はここで生まれ、育てられていたと伝えられる場所です。 
館跡は台地上にありますが、崖の中腹には清水があり、木曽殿清水と呼ばれているそうです。
この地には大倉館の下屋敷が構えられており、源義賢の妻・小枝御前が住み義仲を生みました。~嵐山町HPおよび斑渓寺説明板より
「嵐山」の名は、京都の嵐山に風景が似ていることから、その名前がつけられたそうですが、本家とは異なり訪れる人も少なく、昔を偲ぶには絶好かもしれません。

所在地のMap

伝木曽殿館跡

伝木曽殿館跡(右手)

右手は都幾川

竹藪の中



2016年6月3日金曜日

木曽義仲産湯清水(5-022、埼玉県比企郡嵐山町鎌形、鎌形八幡神社)


木曽義仲産湯清水は鎌形八幡神社の境内にあります。
鎌形八幡神社は奈良時代の創建と伝えています。その後は源氏の氏神として尊崇され、江戸時代には幕末より代々20石の朱印を受けていました。 
本殿は、拝殿に覆われており、室町時代の建築様式を伝え、ご神体として僧形八幡像を祀っています。
境内には木曽義仲産湯の清水と伝えられる泉があり、現在でも澄んだ水がこんこんと湧き出ています。~嵐山町観光協会HPより
鎌形八幡神社は、都幾川を隔てて大蔵館と対峙しています。

鎌形八幡神社


鎌形八幡神社の説明板

木曽義仲産湯清水の石碑

木曽義仲産湯清水
木曽義仲産湯清水