2019年3月30日土曜日

総門址(3-113、香川県高松市牟礼町牟礼)

総門址は民家の立ち並ぶ細い道(旧庵治街道)の傍らにあります。標木は高松藩主松平頼重が立てたものだそうで、近くには立派な石碑と解説板が立っています。
寿永二年(1183)9月、平氏は安徳天皇を奉じて、屋島の行宮(内裏)ができるまで六萬寺を行在所とした。この時、ここに門を構えて海辺の防御に備え、また上陸の拠点とした。総門は、その遺跡である。源氏が平氏軍を急襲した際、ここはたちまち源氏軍の占領するところとなり、故に里人はここを源氏の総門という。(高松市HPより引用)
平家物語 巻第十一 「勝浦」の後半から「嗣信最後」の始めにかけて総門(惣門と記載)近辺での源平の戦の記述がみられます。
義経率いる源氏方が高松の民家に火を放つと、屋島に陣取っていた平家はこ敵が攻め寄せてくるとみて、総門の前の渚に並べてあった船に我も我もと乗り込んだ。(中略)その後、平教経は盛嗣をともなって小船に乗り、焼き払った総門の前の波打ち際に陣をとった。盛嗣が義経のことを「先年、平治の合戦で父が討たれ孤児となったが、鞍馬の稚児になり後には金商人に従って、食糧を背負い奥州を放浪して下った、あの小冠者」というと、源氏方の義盛は「おまえたちは、砺波山の合戦に追い落とされ、命からがら北陸道をさまよい、食を乞いながら泣く泣く京に逃げ上った者か」と言い合った。(参考:杉本圭三郎訳注『平家物語』)
総門址付近は埋め立てられ人家に埋もれてしまっているので、当時を偲ぶことはほとんど困難なように思えます。

総門址の標木

源平合戦総門碑

総門の解説板

2019年3月25日月曜日

屋島(3-112、香川県高松市屋島町)

屋島は今から約800年前の源平合戦の古戦場として有名です。屋島は海に突き出た台地で、頂きが平らな形をした特異な姿が遠くからも目を引きます。

屋島へは琴電屋島駅より車で約10分、高松中央ICより車で約30分、JR屋島駅・琴電屋島駅より屋島山上シャトルバスで10~18分です。
屋島の付け根にあたる部分を相引川が流れて、東側の壇ノ浦に注いでいる。相引川に沿って総門、射落畠、義経弓流し、菊王丸墓、安徳天皇社、佐藤継信墓など屋島の戦の一連の物語の跡が続いている。(青木実『謡蹟めぐり』西日本編より引用)
屋島の山上から眺めた源平古戦場跡(壇ノ浦)は今では沿岸に街並みが広がっていて、当時の合戦風景を偲ぶと「兵どもの夢が跡」の言葉が浮かんできます。

屋島山上からの壇ノ浦

壇ノ浦古戦場

古跡の地図

2019年3月24日日曜日

志度寺(3-123、香川県さぬき市志度)

謡曲「海士」の墓がある志度寺は四国八十八箇所霊場の第八十六番札所で、真言宗善通寺派の寺院です。瀬戸内海(志度湾)がすぐ近くにあり、JR志度駅より徒歩10分、琴電志度駅より徒歩8分です。
開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。 室町時代には、四国管領の細川氏の寄進により繁栄するが、戦国時代に荒廃。その後、藤原氏末裔、生駒親正(安土桃山時代、信長や秀吉などに仕える)による支援を経て、寛文10年(1671年)高松藩主松平頼重の寄進などにより再興されました。(四国霊場八十八ヶ所霊場公式HPより引用)
 海士の墓は本堂の左奥、境内の北西隅にあります。訪ねて驚いたのは、藤原房前が母のために建立したと言われる「海士の墓」が約20基並んでいるまわりを木の杭がぐるりと囲んでいて、まるで牢屋の中にお墓があるような痛ましい光景でした。

御朱印を頂いた時にお寺の方に聞いてみると、十数年前にお墓の石を削り取る行為が続いたため仕方なく採った対応策であるとのことでした。心無い行為に憤りを感じました。
天武の昔、淡海公藤原不比等は、唐の高宗妃から送られた面高不背の玉が、志度沖で龍神に奪われたため、身分を隠して都から志度の浦を訪れ、巡礼可憐な海女と恋仲になり、一子房前が生まれた。淡海公から事情を明かされた海女は、瀬戸の海にもぐり龍神とたたかって玉を取り返したが、命を果てた。
後年大臣となった房前は僧行基を連れて志度を訪れ、千基の石塔を建てて母の冥福を祈ったという。(さぬき市文化財保護協会の解説板より引用)

海女の墓

海女の墓(奥の木杭の中)

海女の墓解説板

謡曲史跡保存会の駒札

志度寺本堂


2019年3月23日土曜日

青葉の楓(2-040、神奈川県横浜市金沢区金沢町、称名寺)

謡曲「六浦」の「青葉の楓」がある称名寺は、京急金沢文庫駅から徒歩15分。赤門をくぐり参道を進むと仁王門の先に阿字ヶ池、その向こうには山稜を背にした金堂と釈迦堂が現れます。池の中央には反橋、平橋がかかっています。この称名寺庭園(境内)は、平安時代中期以降の浄土式庭園の系列にあるものだそうで、立派な庭園です。
称名寺は、金沢北条氏一門の菩提寺、この地に館を構えた北条実時の持仏堂から始まったと推定され、正嘉二年(1258)に伝法灌頂(でんぽうかんじょう)の儀式が行われました。実時は文永四年(1267)審海を開山として迎え、真言律宗に改めました。その後、二代顕時から三代貞顕に至って伽藍の再造営を行い、元享三年(1323)に称名寺の大伽藍が完成しました。(「称名寺境内」パンフレットから引用)
 「青葉の楓」は橋を渡って金堂に向かって左手前にあります。初代は老朽によって昭和四十年頃に倒れて、現在は二代目とのこと。幹は細く、葉っぱは青葉ではなく黄色い枯れ葉で少し拍子抜けしてしまいました。立派な樹になるには数百年の樹齢を重ねなければならないのかもしれません。
謡曲「六浦」は、梅、松、富士、柳等を人格化し、草木の精として扱った曲の一つです。
京の僧が称名寺を訪れて、山々の楓は紅葉の盛りなのに本堂前の楓が一葉も紅葉していないのを不審に思うと、楓の精が現れて、昔鎌倉の中納言為相(ためすけ)卿が、山々の紅葉はまだなのにこの楓だけが紅葉しているので「いかにしてこの一木に時雨(しぐれ)けん 山に先立つ庭の栬葉(もみじば)」と詠むと、楓は非常に光栄に思い「功なりなとげて身退くは天の道」の古句に倣い、その後は紅葉せず常緑樹(ときわぎ)になったこと、草木にはみな心がることを語り、僧に仏法を説くよう頼み、木の間の月に紛れて消え去ります。(謡曲史跡保存会の駒札より引用)
金堂の裏手の山稜の途中に北条実時の墓が立っていて、称名寺境内を見下ろしているようです。

赤門

称名寺境内の説明板

北条氏の家紋「三鱗」

仁王門

称名寺庭園の説明板

平橋と金堂

金堂

称名寺境内の説明板

釈迦堂

青葉の楓

謡曲史跡保存会の駒札

阿字ヶ池と反橋

阿字ヶ池

北条実時墓

北条実時墓

北条実時墓の説明板




2019年3月21日木曜日

放下僧仇討の跡(2-041、神奈川県横浜市金沢区瀬戸、瀬戸神社)

放下僧仇討の跡がある瀬戸神社は、京急金沢八景駅から国道16号線を東京方面に進んだ左手、徒歩1分のところにあります。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、伊豆での挙兵にあたって御利益を蒙った伊豆三島明神(三島大社)の分霊を「せと」の聖地に祭り、篤く信仰しました。社殿の造営もおこなわれ、今日のような神社の景観ができ上がったのは概ねこの頃のことです。執権北条氏、ことに金沢に居を構えた金沢北条氏、また関東管領足利氏や小田原北条氏の崇敬も篤いものがありました。(「瀬戸神社略縁起」より引用)
道路沿いにある鳥居をくぐると立派な社殿が目の前に現れます。短い参道の左手に放下僧仇討の跡があります。
謡曲「放下僧」は、室町時代相模国の刀根信俊に、父の下野国牧野左衛門を討たれた遺児の兄弟が、そのころ流行していた僧行の旅芸人(これを放下僧といった)に扮し、ここ武蔵国瀬戸の三島神社で、見事父の仇をうったという世話巷談をもとに脚色されているが、このときの仇討ちの場所が、境内にある手水舎の東側だったと、伝えられている。なお、樹齢千年といわれる境内の名木「榧の木」は、当時既にあったもの。(謡曲史跡保存会の駒札から引用)
国道の反対側には平潟湾に突き出たところ、弁天島に境内神社の琵琶嶋神社があります。この社は北条政子が近江の竹生島弁才天を勧請したものです。参道入り口右側に頼朝が参拝の折に服を掛けたという福石が立っています。

瀬戸神社全景

本殿(右手前が手水舎)

本殿

放下僧仇討の跡

謡曲史跡保存会の駒札


榧の木

琵琶嶋神社鳥居

琵琶嶋神社

解説板

福石

福石の石板