2017年1月30日月曜日

水火天満宮(1-000,京都府京都市上京区堀川通寺ノ内上ル二丁目扇町)

水火天満宮は日本最初の天満宮だそうです。
延長元年(923)、醍醐天皇の勅願により水難火難除けの守護神として延暦寺の尊意僧正に勅命があり、菅原道真の神霊を勧請し建立された。 
昭和二五年(1950)に堀川通拡張工事に際して、堀川通を挟んだ西側の上天神町から現在の扇町に移転した。~京都市駒札より
境内には道真が降り立ったという登天石があります。

以下は、謡曲「雷神」の概略です。
比叡山延暦寺の座主法性坊尊意僧正が仁王会を執行していると夜更けて、菅公(道真)の霊が訪れ、在世当時の師恩に謝し、さまざまに語り合った後、「自分は雷となって内裏に飛び入り、自分に辛く当った公卿殿上人を蹴殺そうと思う。その時僧正を召されるであろうが、決して参内なされるな」という。僧正が「一二度までは参るまいが、三度にも及べば参らなければならない」と答えると、菅公は怒って、本尊に供えてあった柘榴を嚙み砕いて、妻戸に吐きかけ、火焔を起こしたが、僧正は洒水の印を結んでこれを消し止め、菅公の霊は煙に紛れて消え失せる。 
やがて、僧正が召されて紫宸殿に参内すると、菅公の怨霊は雷神となって現れ、僧正を避けながら、内裏の彼方此方に物凄く鳴り轟いたが、千手陀羅尼の功徳によって、その威力も衰えた上、帝から天満自在天神と贈官を賜ったので、怨霊も死後の恩寵を拝謝して、黒雲に乗って空に昇って行った。~佐成謙太郎『謡曲大観』明治書院より
多くの参拝客でにぎわう北野天満宮と違って人影もまばらで、心静かにお参りすることができます。

鳥居

本殿

登天石

京都市の駒札






2017年1月27日金曜日

雲林院(1-113、京都府京都市北区紫野雲林院町)

雲林院は大徳寺の東南にあります。

今は小さな寺院ですが、解説板によるとかつては相当な寺域を有していたようです。

雲林院は、平安時代の紫野の史跡である。この付近一帯は広大な荒野で。狩猟も行われていた。淳和天皇(じゅんなてんのう)は、ここに広大な離宮紫野院を造られ、たびたび行幸された。 
常康親王(仁明天皇皇子)の時に雲林院と称し、僧正遍照(へんじょう)を貞観十一年(869)に招き、官寺になった。 
堂塔の造営や造仏が相次ぎ桜の名所にもなった。賀茂祭の還立を見物するために朝早くから雲林院あたりに物見車が立ち並ぶ描写が『枕草子』に見える。
雲林院では菩提講が有名で、歴史物語『大鏡』は、この菩提講で落ち合った魯迅の昔物語という趣向で展開する。 
『源氏物語』『伊勢物語』にも雲林院という名は現れ、『古今和歌集』以下歌枕としても有名で、謡曲『雲林院』はそうした昔をしのんで作られている。~京都市駒札より

往時を繁栄ぶりを偲ぶことは難しいですが、境内はきちんと掃き清められていて、格式の高さを感じることができました。

山門

本堂

雲林院の駒札

解説板






2017年1月24日火曜日

紫式部墓(1-112、京都府京都市北区紫野西御所田町)

紫式部墓は堀川北大路通下る西側にあります。

墓の入口にある紫式部墓所の碑のそばには、ムラサキシキブが植えられています。 

墓所に入ると、向かって左手に紫式部墓が、右手に小野篁(おのの たかむら)の墓が建っています。

手入れがきちんとされていて、紫式部の気品が感じられる場所に思えました。

所在地のMap

墓所入口

紫式部墓

紫式部墓

顕彰碑

小野篁墓
紫式部墓と小野篁墓

2017年1月21日土曜日

衣通姫神社(1-118、京都府京都市北区上賀茂本山、上加茂神社)

衣通姫神社(そとおりひめじんじゃ)は上加茂神社の末社である橋本神社で、衣通姫神が祀られています。
謡曲『草紙洗小町』で、小野小町が大伴黒主に「御身は衣通姫の流なれば、あわれむ歌にて強からねば、古歌を盗むは道理なり」と言いがかりをつけられた。
『愚管抄』によれば衣通姫は允恭天皇の后とある。衣通姫の美しさは驚くばかりで、衣を通して輝いていたのでこの名があるという。~青木実『謡蹟めぐり』檜書店より
橋本神社



2017年1月18日水曜日

上加茂神社(1-117、京都府京都市北区上賀茂本山)

上加茂神社は通称で、正しくは加茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)。山城国一宮です。

神代の昔、現在地の北北西にある神山(こうやま)にご降臨され、約1400年前には、現在の御殿の基が国家によって造営されたとのことです。

平成六年には23万坪の境内全域が「古都・京都の文化財」として世界遺産に登録されています。

一ノ鳥居から二ノ鳥居にかけては、緑の境内(馬場)が広がり、城砂の参道が伸びています。明るく開放感があります。

二ノ鳥居をくぐると立砂と細殿が目に入ります。楼門さらに中門をくぐると本殿、左側に権殿がそびえていて、ともに国宝に指定されています。
立砂は神山を象ったもので、神を迎える原型といわれ、頂きに松の葉が立ち、陰と陽の一対になっている。~由緒書より
細殿と楼門の間の橋殿で、左手の御手洗川(みたらし)と右手の御物忌川(おものい)が合流して、ならの小川となって清らかな水が流れています。

百人一首の「ならの小川」は、藤原家隆が「風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける」と、平安の昔、神職がみそぎを修していた風景を詠んでいます。

謡曲「賀茂」で「御手洗や、清き心に澄む水の」と謡われ、別雷の神の縁起も語られます。
秦氏の妻女の玉依日売(たまよりひめ)が、当地の御手洗川で水を汲んでいると、白羽の矢が流れてきた。持ち帰り、軒に挿しておいたところ、懐妊して男子を産んだ。その子が三歳の時、父は雷と知り、天に昇って別.雷(わけいかづち)の神となる。この神を祀ったのが当社である。〜養殖史跡保存会駒札より
御神紋は「二葉葵」で、葵は古く「あふい」と読み、「ひ」とは神を表す。御祭神降臨の際に「葵」を飾り祭りをせよとの神託があったところから、上と人とを結ぶ草として当神社の神紋となっている。~由緒書より 
京都三大祭りの一つである葵祭は、毎年五月十五日に京都御所を出発した行列が下鴨神社を経由して上加茂神社に至るコースを5時間をかけてたどります。

一ノ鳥居

二ノ鳥居

謡曲史跡保存会の駒札

細殿と立砂

立砂の駒札

本殿

ならの小川と藤原家隆の歌碑

ならの小川

ならの小川

願い石(陰陽石)


紫式部の歌碑

2017年1月16日月曜日

深泥ケ池(1-119、京都府京都市北区上賀茂深泥池町・狭間町)

深泥ケ池(みぞろがいけ、みどろがいけ、「深泥池」の別表記もあり)は北区上加茂町にある池および湿地で、周囲は約1540m、面積は約9.2haです。

古くは「御菩薩池」といっていたようで、謡曲「鉄輪」に「通ひ馴れたる道の末、夜も糺の変わらぬは、思ひに沈む御菩薩池」とあって、シテは鞍馬道を貴船に通います。

青木実『謡蹟めぐり』によると、「僧行基がこの池で修法した時、池の上に弥勒菩薩が現れたという伝説があって、御菩薩池と呼ぶようになったと伝えられている」とのことです

所在地のMap

深泥ケ池

天然記念物指定の碑



2017年1月14日土曜日

道成寺の鐘(1-086、京都府京都市左京区岩倉幡枝町、妙満寺)

安珍清姫で有名な「道成寺の鐘」は、右京区の妙満寺(みょうまんじ)にあります。
妙満寺は康応元年(1389)に日什上人が六条坊門室町(現在の烏丸五条あたり)に妙塔山妙満寺として建立したのが始まりです。 
妙満委はその後、天正十一年(1583)秀吉の時代に寺町二条に移され400年にわたり「寺町二条の妙満寺」と親しまれてきました。昭和43年(1968)に都市化のため、現在地に移転しました。~妙満寺由緒沿革より
「道成寺の鐘」は 当然、和歌山県日高町の道成寺に当然あると以前は思っていました。京都のお寺にあることを知って驚いた記憶があります。
醍醐天皇の延長六年(928)ハ月、奥州白河の「安珍」という修験者が熊野に参拝する途中、紀州室の郡・真砂の庄司清次の館に一宿を求めました。そのとき、庄司の娘「清姫」が安珍に思い寄せて言い寄りました。安珍は「熊野参拝を済ませたら、もう一度立ち寄る」と約束しましたが、その約束を破り立ち寄らずに帰途に就いてしまいました。
そのことを知った清姫は激怒して安珍の後を追いかけます。日高川にかかると清姫は蛇身となり、ものすごい形相で川を渡り、ついに道成寺の釣鐘に隠れた安珍を見つけます。清姫は、鐘をきりきりと巻くと、炎を吐き、三時あまりで鐘を真赤に焼き、安珍が黒焦となって死ぬのを見て、自らも日高川に身を投じてしまいました。 
この後、正平十四年(1359)三月十一日、源万寿丸の寄進で道成寺に二度目の鐘が完成した祝儀の席でのこと。一人の白拍子が現れ、舞いつつ金に近づきました。すると、白拍子は蛇身に身を変え、鐘を引きずり降ろすと、その中に姿を消しました。僧たちは「これぞ清姫の怨霊なり」と一心に祈念して、ようやく鐘は上がったのですが、せっかくの鐘も宿習の怨念のためか音が悪く、また近隣に悪病災厄などが相次いで起こったため山林に捨て去られました。 
その後、二百年余りを経た天正年間、秀吉の根来攻め(1585)の大将・仙石権兵衛秀久がこの鐘を拾って陣鐘として使い、そのまま京都に持ち帰りました。そして、安珍・清姫の怨念解脱のため、経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めました。そして、時の貫主の読経により怨念は解かれ、鳴音美しい霊鐘となった。~妙満寺展示室配布資料「「安珍清姫の鐘」について~その由来と詳細~」より
「道成寺の鐘」は展示室に納められています。高さは約105cm、直径約63cm、暑さ5.3cm、重さ約250kg。思いのほか小ぶりという印象でした。

ちなみに、紀州の道成寺ではその後三代目の鐘は作られずに、今でも鐘はありません。

妙満寺本堂

本堂からの眺め



2017年1月12日木曜日

小町寺(1-087、京都府京都市左京区静市市原町)

小町寺は正式には如意山補陀洛寺(にょいさんふだらくじ)といい、叡山電鉄市原駅から徒歩10分ほどの府道40号線沿いにあります。

小町寺は小野小町終焉の地と伝えられています。「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ 小野とはいはじ薄生ひけり」という歌でも名が知られています。

積み上げられた石段を上っていくと境内に小さな本堂があり、堂内には小町老衰像が安置されています。

本堂に向かって左手には、現在では水が枯れてしまっている小町姿見の井があり、その反対側(道路側)には、深草少将供養塔や小町供養塔が立っています。
謡曲「通小町」の後場では、市原野の薄の中から小町の亡霊が登場し、僧に受戒を請いますが、深草少将の怨霊が現れて、私を残して行くのかと恨み、小町の受戒を妨げます。 
「煩悩の、犬となって、打たるると、離れじ」という、ひたむきな愛情をもてあそばれた男の執念のすさまじさと、それから逃れようとする女心の交錯を主題とした特異な作品です。恋に破れた少将は、死してなお現世の執着をすてず、業火をいとわず、自分の成仏はもちろん、女の成仏もさまたげようとします。~権藤芳一『能楽手帖』駸々堂出版より
この「通小町」を思い浮かべ、人間の煩悩の果てしなさを感じながらお参りをしました。

小町寺

本堂

謡曲史跡保存会の駒札

小野皇太后供養塔

小野小町供養塔

小町姿見の井

穴目の薄碑







2017年1月10日火曜日

貴船神社(1-089、京都府京都市左京区鞍馬貴船町)

貴船神社(きふねじんじゃ)は、貴船川を挟んで鞍馬山の西、貴船山の麓にあります。

貴船川に沿って川下から川上に向かって本宮(ほんぐう)、結社(ゆいのやしろ)、奥宮(おくみや)の順番で巡ることができます。

本宮は水の供給を司る神である高龗神(たかおかみのかみ)を、結社は縁結びの神である磐長姫命(いわながひめのみこと)を、奥宮は高龗神(一説には闇龗神(くらおかみのかみ))をそれぞれ祭神としています。
貴船神社は鴨川の水源地にあたり、水の供給を司る神様をお祀りしている。
創建年代不詳ながら、伝説によると神武天皇の皇母にあたる玉依姫命(たまよりひめのみこと)が黄船に乗って大阪湾から淀川、鴨川を遡り、現在の奥宮の地に至り、水神を祀ったのが創建と伝わる。 
平安時代の女流歌人・和泉式部が参拝し、心変わりした夫との復縁祈願が成就したことから、縁結びの神としても篤い信仰を集めている。~気生根略記より
最近では 縁結びの神として若い女性を中心に人気のスポットになっていて、訪れた秋の週末には本宮に長井参拝列ができて、狭い境内は大変交雑していました。

貴船神社は、謡曲「鉄輪」の前場の場所としても有名です。
都に住む一人の女が、自分を捨て、新しく妻を迎えた夫の不実を恨んで、貴船の社に日参して、祈願をかけます。嫉妬の末に鬼女となる女の激しい執念と、また一面、男への捨てきれぬ思慕の心を主題にした能です。~権藤芳一『能楽手帖』駸々堂出版より
女性参拝客でにぎわう参道を和泉式部や「鉄輪」の女の心情を想像しながら歩きました。

貴船川

蛍石

烏帽子岩

烏帽子岩

本宮鳥居

本宮本殿

貴船神社駒札

和泉式部歌碑

和泉式部歌碑説明板

天乃磐船

天乃磐船の駒札

結社説明板

思ひ川

思ひ川駒札

奥宮鳥居

奥宮

奥宮

奥宮本殿

説明を追加

謡曲史跡保存会の駒札

御船形石