2017年8月30日水曜日

桜川(5-059、茨城県桜川市)

桜川は、桜川市北部の岩瀬地区・鍬柄峠付近にある鏡ヶ池に源を発して南へ流れ、土浦市のJR土浦駅付近で霞ヶ浦に注ぐ河川です。

かなり護岸工事が進んでいて、残念ながら謡曲『桜川』の風情は感じられませんでした。

それでも磯部稲村神社から上流を鏡ヶ池まで遡りましたが、ごみなどは落ちておらず、流れる水も澄んでいてきれいでした。

もう少し丹念に川岸を辿っていけば、眺めのよい箇所はあると思います。機会があれば探してみようと思います。










2017年8月28日月曜日

櫻川磯部稲村神社(5-059、茨城県桜川市磯部)

桜川磯部稲村神社は、景行天皇40年10月に、日本武尊が伊勢神宮荒祭宮磯宮をこの地に移して祀ったと伝えられています。

御祭神は天照皇大神、木花佐久耶姫命(このはなさくやひめ)などで、社殿は大きくはありませんが、まわりを桜の木々に囲まれ、古い歴史の重みを感じさせます。

参道や丘の斜面に多くの山桜が見られ、桜の名所として広く知られてきました。

謡曲『桜川』で人商人に身を売った桜子は、木花佐久耶姫命(曲中では木華開耶姫)の御氏子でした。シテ(桜子の母)は「古里の御神をば。木華開耶姫と申して。御神体は桜木にて御入り候。されば別れしわが子もその御氏子なれば、桜子と名づけ育てしかば。」と語ります。

ワキの僧は磯部寺の住職ですが、磯部寺という寺はありません。青木実氏は著書の『謡蹟めぐり』で「磯部稲村神社が磯部という名を冠しているので、明治の初め廃仏毀釈があったので、無理やり神社にされたのではないかと、自分勝手に想像もしてみる」と記しています。

参拝に訪れたのは4月上旬の雨上がりの一日、桜は五分咲き程度でした。

境内には要石があり、「磯部の要石(凸形)と常陸国一之宮鹿島神宮の要石(凹形)は対を成し、古来より連なり地震除け・災難除けの守り神とされている。鹿島の要石は鯰の頭、磯部の要石は尾、を押さえる」と説明がされていました。

また、紀貫之が詠んだ歌(後撰集)「常よりも春辺になれば桜川 波の花こそ 間なく寄すらめ」の歌碑がありました。

桜川磯部稲村神社鳥居

本殿

解説板

謡曲史跡保存会の駒札

要石

要石の説明書き

紀貫之の歌碑

歌碑の説明板

神社裏手の桜

神社裏手の桜



2017年4月12日水曜日

業平塚(5-017、埼玉県新座市野火止、平林寺)

業平塚は平林寺の境内の奥、松平家の墓所の裏側にあります。

積み上げられた石に囲まれた土饅頭の真ん中に業平塚の石碑が立っているとてもシンプルなものです。

平林寺への参拝客は多くても、この業平塚を訪ねる人は少ないのではと思えるくらいひっそりとしていました。

在原業平(天長二年(825)~天慶四年(880))が京から東国への東下りのおりに、武蔵野が原に駒を止めて休んだところと伝えられています。

かつて塚上に「むさし野にかたり伝えし在原のその名を偲ぶ露の古塚」という歌碑があったということです。 

業平塚

業平塚

業平塚

説明板

2017年4月9日日曜日

河越氏館跡(5-019、埼玉県川越市大字上戸、常楽寺および河越館跡史跡公園)

入間川の西側に河越氏館跡があります。

現在の常楽寺(かつての河越氏の持仏堂)と河越館跡史跡公園にまたがる広大な場所です。

常楽寺は、河越氏が創建した持仏堂が嘉元三年(1305)に時宗常楽寺に改称されたものだそうです。

境内には河越重頼、源義経の正室となった重頼の娘(京姫)、および義経の3人の供養塔があります。

常楽寺の裏側には河越館跡史跡公園が広がっていて、屋敷や堀、井戸の跡についての解説板がぽつぽつと立っています。

重頼の時代の河越氏の隆盛ぶりを体感できる風景です。

詳細な解説がなされ、きちんと保存されていることに感心しました。

河越館跡碑

常楽寺山門

仁王門

本堂

重頼・京姫・義経供養塔

供養塔碑

河越氏館跡史跡公園

解説板(河越館跡をイメージ)

解説板(河越氏)

解説板(史蹟河越館跡整備)

解説板(発掘調査)

堀跡

解説板(井戸跡)

井戸跡

解説板(塚状遺構)

解説板(館の堀)

堀跡

解説板(周辺の歴史)

解説板(周辺の歴史)

解説板(周辺の歴史)





2017年3月26日日曜日

河越氏菩提寺(5-018、埼玉県川越市元町、養寿院)

河越氏菩提寺である養寿院は、寛元元年(1243年)、秩父平氏の末裔である河越次郎経重(遠江守、河越太郎重頼の曾孫)が開基となった寺で、川越菓子屋横丁の西側に位置しています。

本堂の左手の奥には、「伝 河越太郎重頼の墓」があります。
河越氏は、板東八平氏の一つ秩父氏の出で、重頼の祖父重隆のころに川越に進出し、河越氏を名乗った。
河越氏は源頼朝が挙兵した当時、敵対していたが、重頼の妻が頼朝の乳母・比企禅尼の娘であったこともあり、後に頼朝方について平氏を追討、鎌倉幕府の樹立に力を尽くした。重頼の娘は、義経の正妻に選ばれて上洛するが、頼朝・義経が不和になると、重頼は誅殺させ、所領は没収された。~小江戸川越観光推進協議会駒札から
重頼の子重房は、父とともに義経に従って平家追討の軍に加わっています。 重房は謡曲『千手』クセに「名をこそ流せかわごえの、重房が手に渡り心の外の都入り」とあるように、一の谷で捕えた平重衡を都に護送している描写があります。

また、『平家物語』知章最後では、「修理大夫経盛の嫡子、皇后宮亮経正は、たすけ舟に乗らんと汀の方へ落ち給ひけるが、河越小太郎重房の手に取籠められうたれ給ひぬ」と一の谷で平経正を討った重房の名が登場します。

養寿院本堂

河越太郎重頼の墓

河越太郎重頼の墓の駒札

2017年3月24日金曜日

宝持寺(5-000、埼玉県鴻巣市箕田)

宝持寺は氷川八幡神社の東隣にあります。

宝持寺はおよそ1千年前に渡辺綱が、祖父(箕田源氏の祖・源仕)・父(源宛)の菩提を弔うために建立したと伝えられています。
渡辺綱は万寿二年(1025)二月十五日没。享年73歳。宝持寺には綱の位牌が残されている。法名は「美源院殿大総英綱大禅定門」という。~鴻巣教育委員会解説板より 
山門

本堂

本堂

2017年3月22日水曜日

箕田氷川八幡神社(5-000、埼玉県鴻巣市箕田)

箕田氷川八幡神社(みだひかわはちまんじんじゃ)は、旧中山道を箕田追分(みだおいわけ)から南下して1.3キロのところにあります。

大きな鳥居をくぐって境内にはいると、大きな木々はほとんどなく面積の割には広々としていて明るく感じられます。
氷川八幡神社は、明治六年、当時箕田郷内に祀られていた氷川社、八万社など二十余社の社を併合して、箕田郷の郷社として八幡社のあった現在地に祀られたものである。
氷川社は、承平八年(938)清和天皇の孫である源経基が武蔵国の国介になってこと地に赴任して統治した際、大宮の氷川神社から勧請したと伝えられており、中宿地内に祀られていた。
八幡社は、源経基の臣下であった源仕(つかさ)が経基と相談して、天慶四年(941)現在地に京都の石清水八幡宮から勧請したもので、仕の孫の渡辺綱によって神田(しんでん、八幡田の地名あり)が寄進され再興されたものである。
源仕は嵯峨天皇の曾孫にあたり、平将門の乱や藤原純友の乱の平定に武功をあげ、武蔵国の国守に仁ぜれれてこの地に住んだものであり、渡辺綱は丹波の大江山に住む鬼を退治した逸話で有名な武将である。~箕田氷川八幡神社由緒より
 渡辺綱は、大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名で、謡曲『羅生門』は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものです。
渡辺綱は源宛(あたる、仕の子)の長子として天暦七年(953)に箕田に生まれた。幼くして両親を失ったため、母方の叔母である多田満仲の娘に引き取られた。摂津国渡辺庄で育ったことから渡辺姓を名乗った。幼少より勇名を馳せ、長じては源頼光に仕え、世に頼光四天王の第一と称され、豪勇で知られた。後に丹波守に任ぜられた。~鴻巣市教育委員会解説板より
境内には辞世の句「世を経ても わけこし草の ゆかりあらば あとをたつねよ むさしののはら」を刻んだ箕田碑が本殿の左脇に立っています。

源仕をはじめとする源家三代の館(箕田館跡)は氷川八幡社の北側にあったと伝えられていますが、現在はまわりに住宅や墓地が迫りわずかな畑地が残るばかりで、当時を偲ぶことの出来るものはありませんでした。

箕田氷川八幡神社遠景

鳥居

本殿

鴻巣市教育委員会解説板

由緒書

箕田碑

箕田碑駒札