2016年6月1日水曜日

大蔵館跡(5-020、埼玉県比企郡嵐山町大蔵)

大蔵館は、源義賢が仁平3年(1153)~久寿2年(1155)の2年間住んでいました。

源義賢は、平安時代後期の清和源氏で、のちの木曽義仲の父です。

東宮の警護役の長官であったことから、その役職名であった帯刀先生(たてわきせんじょう)とも呼ばれていました。

現在の嵐山町の大蔵に居をかまえましたが、久寿2年(1155)の「大蔵の戦い」で、義朝(義堅の兄)の命を受けた15歳の長男義平に攻められて戦死しました(義平はこの叔父殺しで、悪源太義平と言われるようになったとか)。

当時2歳であった駒王丸(木曽義仲)は、危うく難を逃れて、長井の斎藤実盛によって木曽の中原兼遠に預けられました。

館跡には道路に面して「大蔵館跡」と刻んだ大きな石柱が立っています。

訪ねる人もなくひっそりとしていて、かつてここに賑やかな佇まいの館があり、その後に激しい戦があったとは想像もつきません。

所在地のMap

「大蔵館跡」の石柱

「大蔵館跡」の説明板