由岐神社の祭神の「靫明神」(ゆきみょうじん)は、天慶三年(940)天慶の乱が起きたので朱雀天皇の勅により、鞍馬寺に遷宮し、北方鎮護を仰せつかった鎮守社です。~由緒書より階段左手には見上げるほどの立派な大杉社があります。
豊臣秀頼が再建した拝殿は国の重要文化財に指定されています。
| 鳥居 |
| 大杉社 |
| 大杉社 |
| 拝殿 |
| 駒札 |
| 由緒書 |
| 由緒書 |
| 鞍馬駅 |
| 鞍馬駅前の大天狗 |
| 仁王門 |
| 鞍馬寺の駒札 |
| 鞍馬寺の解説板 |
| 魔王の滝 |
| 魔王の滝 |
| 鬼一法眼社 |
| 鬼一法眼社 |
| 義経供養塔 |
| 奥の院参道入り口 |
| 息つぎの水 |
| 背比べ石 |
| 背比べ石 |
| 木の根道 |
| 不動堂 |
| 義経堂 |
| 謡曲史跡保存会の駒札 |
| 奥の院(魔王堂拝殿) |
| 魔王堂 |
この地は源義朝の別邸で、常盤が住んでいたところだったで、平治元年(1160)に義経(牛若)が誕生した時、この井戸水を産湯に汲み使った。~「源義経産湯ノ遺址」碑より⇒ 所在地のMap
| 源義経産湯ノ遺址 |
牛若丸はこの地で平治元年(1159)生誕しました。⇒ 所在地のMap
産湯井・胞衣塚塚と彫られた石碑には応永二年(1395)と年号が銘記され、京都で一番古い石碑と思います。
今は畑のなかですが、明治のころまで牛若丸産湯大弁財天社の小宮で、開運のご利益と崇められていました。~上野新三郎氏・由緒に関する説明板より
| 牛若丸誕生井(牛若丸産湯井) |
| 胞衣塚 |
| 胞衣塚 |
| 牛若丸誕生井と胞衣塚の由緒書 |
謡曲「土蜘蛛」では、頼光が原因不明の熱病で臥しているところへ、化身した土蜘蛛ノ精があらわれ襲ってきたので、頼光は銘刀膝丸で斬りつけた。
血のあとをたどって、家来の渡辺綱ら四天王が追って行くと“北野のうしろ”に大きな塚があって、大きな山蜘蛛があらわれ、これを退治したことが、述べられているが、その塚が、ここにあったといわれ、一名「蜘蛛塚」ともいう。
北野とは、この辺り一帯の禁野(しめの)の一つで、ちょううど、ここが北野のうしろに当たる。もと千本鞍馬口西入にあったのを、昭和の初め、ここに移した。~謡曲史跡保存会の駒札より
| 源頼光朝臣塚 |
| 源頼光朝臣塚 |
| 謡曲史跡保存会の駒札 |
寺伝によると延暦二五年(806)に桓武天皇の勅を奉じて藤原小黒麿らが皇城鎮護のために建立され、当初は朝日寺と呼ばれていた。本殿の左手奥に、土蜘蛛塚(つちぐもつか)があります。
天暦元年(947)に朝日寺の僧、最鎮らが天満宮を建立した後の応和元年(961)、筑紫の観世音寺より菅原道真公御作の十一面観世音菩薩を請来し安置された。
応長元年(1311)、無人如導宗師が中興し、花園・後醍醐・光厳・光明の四天皇信仰深く筑紫の観世音寺に擬して観世音寺または観音寺と改称し、天満宮御本地仏・北野神宮寺または、奥之院とも称した。
本堂が東を向くことから東向観音と称されるようになる。
元は、東向・西向(一夜松の観世音菩薩安置と伝える)の両堂あったが、応仁の乱や火災等で焼失し、西向きは再興されず東向観音堂のみ再建された。
江戸時代の後期頃より寺名は、朝日山観音寺となった。~東向観音寺HPより
蜘蛛灯篭(くもとうろう)が、もと七本松通一条にあって、源頼光(みなもとのよりみつ)を悩ました土蜘蛛が棲んでいるところといわれた。明治年間に、この塚を発掘したところ、石仏や墓標の破片したものが出土し何等参考になるものはなかった。その時の遺物が、ここにある「火袋」で、当時、ある人が貰いうけ庭に飾っていたところ家運が傾き“土蜘蛛の祟り”といわれたので、東向観音寺に奉納したという。~謡曲史跡保存会の駒札よりこの「火袋」が納められているのが土蜘蛛塚です。
| 山門 |
| 本堂 |
| 土蜘蛛塚の遠景 |
| 土蜘蛛塚 |
| 謡曲史跡保存会の駒札 |
北野天満宮は菅原道真公(菅公)をお祀りした神社で、祭神は菅原道真公、中将殿(道真公の子息)、吉祥女(道真公の夫人)です。「北野の天神さま」と呼ばれています。鳥居をくぐって楼門、さらに中門(三光門)を抜けると国宝に指定されている本殿です。慶長十二年(1607)に豊臣秀頼が造営したもので、秀吉からの継続事業の一端であったそうです。
平安時代中頃の天暦元年(947)に、京都に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ)や近江国比良宮の神主神良種(みのよしたね)、北野朝日寺の僧最珍(さいちん)らが、当初に神殿を建て、菅公をおまつりしたのが始まりとされます。
その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念されました。この時から「北野天満宮天神」の信号が認められました。~北野天満宮参拝の栞より
菅原道真公は学者出身の政治家として手腕を発揮して異例の出世を重ね、昌泰二年(899)右大臣に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括します。ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰四年(901)太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。菅原道真を題材にした古典芸能では、謡曲「雷電」や人形浄瑠璃・歌舞伎の演目である「菅原伝授手習鑑」(すがわらでんじゅてならいかがみ)が有名です。
菅公の清らかで誠実な人柄と晩年の不遇はさまざまな伝説を生み、やがては天神さまと崇められるようになりました。~同
天神さまは古くは「雷神」(らいじん)と結びつき、神鳴(かみなり)さまとおそれられ、稲妻・稲光の語から雨をつかさどる「火雷天神」(からいてんじん)として、豊年を祈る人々の信仰を集めてきました。~同北野天満宮の一の鳥居内東側広場は右近衛府の馬場跡で、鹿島の神職が右近の馬場の桜を眺めようと訪れた謡曲「右近」の場所です。
| 中門(三光門) |
| 三光門の立札 |
| 本殿 |
| 右近馬場の駒札 |
| 右近馬場跡 |